クロンベルクから帰宅すると殆ど午前様だった。19時30分始まりのコンサートで一度休憩があっただけだ。演奏会としては長めではあったが20分ぐらいだったろうか。写真撮影していたのであまり良く分からないが、30分は越えていない。それでも盛り沢山だった。
15時半前にはワイン街道を出て、途中立ち寄り先によって、クロンベルクの街には17時20分前には着いた。街道は、アウトバーンにはなっていないのだが、フランクフルト通勤者も多いだろうから、綺麗なバイパス道路になっていて、アウトバーンとあまり変わらない。対向車線でもなかったと思う。前回の訪問では普通の信号のある国道を走ったような記憶がある。だから今回も覚悟していたのだが、サムスンなどの大きな建物も過ぎ去っていった。
そこからホールの駐車場探しに30分ほどを掛けた。既に一つは確保していたのだが今後の為にと思って探ししたからだ。そこで結局街の全方位からアプローチしたことになる。古い山の懐の街なので車通りは狭い。街を入っていくと一方通行しか叶わない谷の奥へと入っていく。街の墓場まで分かった。とても遠い。ツェルマットよりも狭苦しい。戻るのが嫌なのでどんどんと突き進むとクロンタールというのを出て隣町のケーニッヒスシュタインへの幹線道路に出た。そこからまたフランクフルトへの幹線道路に戻って再侵入を試みた。
最初に見つけていた公民館へのベルリナープラッツの駐車場に入れた。既に18時に近かったからだ。そこから車で侵入できなかった街の目抜き通りへと歩いてみた。赤絨毯が引いてあったからだ。その先はヨハニスキルヘだったようだが、戻ってくると隣がこの街の名所シュトライトキルへだった。その名称は新旧の教会の戦いでそこの教会がどちらにというお話しなのだが、そこに住んでいた人を知っている。コロナ期間に亡くなったご近所さんだった。
今回のクロンベルク行には勿論故人との係わりも感じていたが、予期せずに吸い寄せられる様なことに相成った。特別な係わりを持っていた訳ではなく、街の厄介者の爺さんだったので、それ以上に親しくできるような人物でもなかった。しかし、その生家の中が幾つもの写真になっているような絵葉書を貰った。改めて検証してみたいと思う。それは故人の所縁について前回街を訪れた後に話したからだった。
ナチ政権下でのドイツの街の様子が如実に分かる想い出であった。肉屋に買い物に行くと「ハイルヒットラー」と敬礼をしなければ売って貰えなかったということである。母親がユダヤ人であったのだ。とてもよくわかる風景で、まさしく今日のネトウヨの世界のその先の情景である。
新しいホールを探していて、突然そこにということで一寸驚いた。しかし今後も出かける機会があるので、改めて出かけておいてよかった。もしかするとお墓も先通った街の墓地にあったのではないかと感じたぐらいだ。
雨に濡れて歩くと湿気が足元に伝わる赤絨毯を戻って、フランクフルトへの街道に戻った。新ホールはその先の駐車場から街道を渡って坂を下りて駅の方に向かう途中にあった。
参照:
クロンベルクの皇后陛下 2006-02-02 | 女
タウヌスの芸術家植民地 2006-02-01 | 文化一般
15時半前にはワイン街道を出て、途中立ち寄り先によって、クロンベルクの街には17時20分前には着いた。街道は、アウトバーンにはなっていないのだが、フランクフルト通勤者も多いだろうから、綺麗なバイパス道路になっていて、アウトバーンとあまり変わらない。対向車線でもなかったと思う。前回の訪問では普通の信号のある国道を走ったような記憶がある。だから今回も覚悟していたのだが、サムスンなどの大きな建物も過ぎ去っていった。
そこからホールの駐車場探しに30分ほどを掛けた。既に一つは確保していたのだが今後の為にと思って探ししたからだ。そこで結局街の全方位からアプローチしたことになる。古い山の懐の街なので車通りは狭い。街を入っていくと一方通行しか叶わない谷の奥へと入っていく。街の墓場まで分かった。とても遠い。ツェルマットよりも狭苦しい。戻るのが嫌なのでどんどんと突き進むとクロンタールというのを出て隣町のケーニッヒスシュタインへの幹線道路に出た。そこからまたフランクフルトへの幹線道路に戻って再侵入を試みた。
最初に見つけていた公民館へのベルリナープラッツの駐車場に入れた。既に18時に近かったからだ。そこから車で侵入できなかった街の目抜き通りへと歩いてみた。赤絨毯が引いてあったからだ。その先はヨハニスキルヘだったようだが、戻ってくると隣がこの街の名所シュトライトキルへだった。その名称は新旧の教会の戦いでそこの教会がどちらにというお話しなのだが、そこに住んでいた人を知っている。コロナ期間に亡くなったご近所さんだった。
今回のクロンベルク行には勿論故人との係わりも感じていたが、予期せずに吸い寄せられる様なことに相成った。特別な係わりを持っていた訳ではなく、街の厄介者の爺さんだったので、それ以上に親しくできるような人物でもなかった。しかし、その生家の中が幾つもの写真になっているような絵葉書を貰った。改めて検証してみたいと思う。それは故人の所縁について前回街を訪れた後に話したからだった。
ナチ政権下でのドイツの街の様子が如実に分かる想い出であった。肉屋に買い物に行くと「ハイルヒットラー」と敬礼をしなければ売って貰えなかったということである。母親がユダヤ人であったのだ。とてもよくわかる風景で、まさしく今日のネトウヨの世界のその先の情景である。
新しいホールを探していて、突然そこにということで一寸驚いた。しかし今後も出かける機会があるので、改めて出かけておいてよかった。もしかするとお墓も先通った街の墓地にあったのではないかと感じたぐらいだ。
雨に濡れて歩くと湿気が足元に伝わる赤絨毯を戻って、フランクフルトへの街道に戻った。新ホールはその先の駐車場から街道を渡って坂を下りて駅の方に向かう途中にあった。
参照:
クロンベルクの皇后陛下 2006-02-02 | 女
タウヌスの芸術家植民地 2006-02-01 | 文化一般