本シーズンの最初の新制作公演の生中継を観た。ミュンヘンから新制作「コシファンテュッテ」だった。珍しく多くの時間をモニターの前で過ごした。それでも音を聴いてちらちらと様子を観ていただけであるが、劇場効果は伝わった。
先ず音楽的には成功していた。現音楽監督が指名されたその一つの根拠として、前任者、前々前任者のキリル・ペトレンコとズビン・メータの二人共が三大氏神のモーツァルトで成功していなかったからだ。それをして、BRのノイホッフ氏は、高給取りの指揮者の中でモーツァルトを指揮できる人はごく少数としている。
そこで、ヴラディミール・ユロウスキーの指揮は高く評価された。初めての作品指揮だったようだが、古楽器奏法や楽器を活かしながら ― 先月の「魔弾の射手」を思い出させるが ―、大劇場に一杯に通るだけの音楽を提供していたと思う。楽器配置も弦の後ろに管楽器を並べて、その音色配合を上手に使っていた。まさしくその音色のグラデーションこそがモーツァルトを現代の大劇場へと広がる音響としていた。その点は、ティテュス・エンゲルが外部の古楽奏法に慣れた楽団を用いて敢えて野卑な音を求めていて対ロマンとしていたのとはやや異なり、ユロウスキーの語る「ややもすると最後にロマン派への掛け渡しになっていたとは 絶 対 言わないが、」とする視座の音化に成功していた。
ユロウスキーはその美学的な定義付けの上手な指揮者であるのだが、それが必ずしも演奏実践として成功するとは限らない。その意味では、これまでの新制作二作「鼻」と「ルーダンの悪魔」での狙いよりもシムプルに達成していた。
そして終焉後の批評にもあったのだが、今迄で最長の公演時間だったというように、通常の短縮を元に戻して更にテムピを落としていることから19時開演で23時終了となったのだ。そこで批判されるように上手くいったが全てではなくてと、まさしく主役ペアーの二つ目のフィオルディリージが陥落する場面はまだまだ良くなる可能性があった。実際に開演前には相手役のフェルナンドのコロナ陽性からの回復における体調不十分が伝えられていたのだった。
しかしそのフィオルディリージを歌ったルイーズ・アドラーは、モーツァルトのメッカで歌うだけの実力があって、ドラマティックな声だけに高い声は延びないのだが、それを補って余るだけの表現力は更に重い嵌まり役で今後世界を制覇するだけの歌唱力を聴かせた。勿論大スターのゲルハーハーも、中継中に語られていたように嘗ては劇場のアンサムブル団員だったフィッシャ―ディスカウを超える演技と歌唱で、また妹ペアー役の現団員の歌唱と共に流石にオペラの殿堂だけの高い水準の歌唱だった。
そして演出も喝采で迎えられたように、デーヴィッド・リンチのような終結と語る映画監督で、芝居からオペラに入ってきたベネディクト・アンドリュースの制作として成功していた。完全に音楽劇場として音楽も芝居も機能していた。なるほど評論家のティーレ氏の語る様に、指揮共々モ―ツァルトの瀟洒さが犠牲にされていたというのがあったが、演出が変われば音楽も変わる。一番大切なのは聴衆がその劇の中に引き摺り込まれる効果によって初めてモーツァルトの音楽のその本質に触れていく可能性があることである。その意味ではまさにこの苦みの残る副題「愛の学校」を後にする聴衆への効果は十分に想像できた。音楽劇場の勝利である。(続く)
COSÌ FAN TUTTE - Was begehrst Du?
Trailer zu COSÌ FAN TUTTE
Cosi fan tutte an der Bayerischen Staatsoper
参照:
三大氏神下しへの可能性 2022-10-19 | 文化一般
音楽劇場の舞台設定 2019-11-20 | 文化一般
先ず音楽的には成功していた。現音楽監督が指名されたその一つの根拠として、前任者、前々前任者のキリル・ペトレンコとズビン・メータの二人共が三大氏神のモーツァルトで成功していなかったからだ。それをして、BRのノイホッフ氏は、高給取りの指揮者の中でモーツァルトを指揮できる人はごく少数としている。
そこで、ヴラディミール・ユロウスキーの指揮は高く評価された。初めての作品指揮だったようだが、古楽器奏法や楽器を活かしながら ― 先月の「魔弾の射手」を思い出させるが ―、大劇場に一杯に通るだけの音楽を提供していたと思う。楽器配置も弦の後ろに管楽器を並べて、その音色配合を上手に使っていた。まさしくその音色のグラデーションこそがモーツァルトを現代の大劇場へと広がる音響としていた。その点は、ティテュス・エンゲルが外部の古楽奏法に慣れた楽団を用いて敢えて野卑な音を求めていて対ロマンとしていたのとはやや異なり、ユロウスキーの語る「ややもすると最後にロマン派への掛け渡しになっていたとは 絶 対 言わないが、」とする視座の音化に成功していた。
ユロウスキーはその美学的な定義付けの上手な指揮者であるのだが、それが必ずしも演奏実践として成功するとは限らない。その意味では、これまでの新制作二作「鼻」と「ルーダンの悪魔」での狙いよりもシムプルに達成していた。
そして終焉後の批評にもあったのだが、今迄で最長の公演時間だったというように、通常の短縮を元に戻して更にテムピを落としていることから19時開演で23時終了となったのだ。そこで批判されるように上手くいったが全てではなくてと、まさしく主役ペアーの二つ目のフィオルディリージが陥落する場面はまだまだ良くなる可能性があった。実際に開演前には相手役のフェルナンドのコロナ陽性からの回復における体調不十分が伝えられていたのだった。
しかしそのフィオルディリージを歌ったルイーズ・アドラーは、モーツァルトのメッカで歌うだけの実力があって、ドラマティックな声だけに高い声は延びないのだが、それを補って余るだけの表現力は更に重い嵌まり役で今後世界を制覇するだけの歌唱力を聴かせた。勿論大スターのゲルハーハーも、中継中に語られていたように嘗ては劇場のアンサムブル団員だったフィッシャ―ディスカウを超える演技と歌唱で、また妹ペアー役の現団員の歌唱と共に流石にオペラの殿堂だけの高い水準の歌唱だった。
そして演出も喝采で迎えられたように、デーヴィッド・リンチのような終結と語る映画監督で、芝居からオペラに入ってきたベネディクト・アンドリュースの制作として成功していた。完全に音楽劇場として音楽も芝居も機能していた。なるほど評論家のティーレ氏の語る様に、指揮共々モ―ツァルトの瀟洒さが犠牲にされていたというのがあったが、演出が変われば音楽も変わる。一番大切なのは聴衆がその劇の中に引き摺り込まれる効果によって初めてモーツァルトの音楽のその本質に触れていく可能性があることである。その意味ではまさにこの苦みの残る副題「愛の学校」を後にする聴衆への効果は十分に想像できた。音楽劇場の勝利である。(続く)
COSÌ FAN TUTTE - Was begehrst Du?
Trailer zu COSÌ FAN TUTTE
Cosi fan tutte an der Bayerischen Staatsoper
参照:
三大氏神下しへの可能性 2022-10-19 | 文化一般
音楽劇場の舞台設定 2019-11-20 | 文化一般