Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ミュンヘンの放送楽団

2022-10-11 | 
週末金曜日ミュンヘンからの中継があった。ラディオもストリーミングも両方流していた。ご当地の放送交響楽団がミュンヘンのレジデンツ一角にあるヘラクレスザールから生中継した。曲目は一曲だけ新しい作品があったのだが、他の曲が何だったかも忘れた。指揮者は以前にそこの劇場のアシスタントをしていたジャコーという女性でフランス人である。

彼女が仕事をした「南極」初演は記憶に残り、初日当日も話しをしていたと思う。トロンボーンの管楽器出身の人で、新しい音楽の感覚も期待した。残念ながら今回も彼女の音楽は不明確だった。折からPCでのアンドロイドエミュレーションを弄っていて、ネット回線が切れてしまったので、映像は殆ど観ていない。しかし音楽は流していたのだ。

指揮の技術もあるのだろう、女性はキリル・ペトレンコの助手をしていたといううだけでコペンハーゲンの音楽監督に抜擢されている。勿論レパートリーなどは殆どなかった指揮者であるが、やはり演奏会でもそれ以上の力は示せていなかった。

インタヴューでは、楽団を指揮する場合にその自主性を活かして音楽を作っていくというような話をモットーとしていた。まさしくその指揮からは音楽のヴェクトルも見えにくい。重要なことが徹底していないのだろう。昔からエリアス・カノッティーの有名な文章がある様に、指導者としての指揮者が定義されているが、勿論現在においてはファシストなんかでは指導者像はありえないのだが、やはりリーダーシップとなる音楽的に導くものが見えなかったのである。新しい音楽の場合などは会場の誰よりもその曲を知っている筈なのにである。

なにを拘ってそのことを書いているかというとやはり放送交響楽団が気になるからである。今週ミュンヘンに出かけて聴く予定をしているからである。前回はミュンヘンかフランクフルトかどこかで首席指揮者のマゼール指揮で聴いている筈なのだが、あまり記憶に残っていない。とても旧主的な放送管弦楽団なのだが、ツアーに組むようなプログラムが保守的なものとなればベルリナーフィルハーモニカーやヴィーナーとか日頃から聴いている聴衆には全く記憶に残らないのである。やはり今回もバランスは綺麗に取れていてもそれ以上の明晰さつまり音楽自体が弱く、アンサムブルの方法もコンセルトヘボーの様に精妙さがない。そうした個性は当該のホールであまり強い音が出せなかったことで形成されたとされているが、戦後の短い歴史の中で培われてきたものなのだろう。

さて、今週の演奏会はペトレンコのミュンヘンで成功してから初めての客演指揮で、メンデルスゾーンの大合唱オラトリオ曲「エリアス」が演奏される。それも新しいホールで演奏されることから、どのような規模の合唱団が入るかも期待されるところである。

ペトレンコの指揮では2019年にマーラー作曲「千人交響楽団」がブレゲンツでまた開幕ツアーで「第九」が演奏されたが、またその前にはミュンヘンでベートーヴェン作曲「ミサソレムニス」が演奏された。来シーズンぐらいにはミュンヘンでの再演も期待されているが、今回はベルリンに先駆けてオラトリオ曲が演奏されることになっている。この放送交響楽団は今迄もこうしたオラトリオ演奏なども名演を展開しているので、今回も上手に伴奏が出来るのではなかろうか。要するに音楽的な個性の弱い交響楽団であることは変わりない。



参照:
南極探検での蓄音機 2022-02-14 | 文化一般
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする