オペラ専門誌「オペルンヴェルト」の今年度の賞が発表された。多くの評論家やジャーナリストがそのシーズンのオペラ公演からリストアップして劇場、公演、演出、座付き楽団、指揮者、歌手、合唱などの各分野からベストを選んでいくものだ。玄人の選択なのでそれなりの権威はある。
2020年度にはティテュス・エンゲルとキリル・ペトレンコが別けあったので記憶に新しい。今年は残念ながらエンゲルは入っていないが、そこは無理してベストプリマドンナに彼の指導で歌った「ブルートハウス」のフェラロッテ・ベッカーに驚愕の授賞となった。その公演は今世紀前半の最も重要なオペラ公演であったことは間違いないので、何とかこじ入れたという感じがする。
ペトレンコの授賞理由は、オペラを振る唯一の機会であるバーデンバーデンの復活祭でただ四回だけ指揮した新制作「スペードの女王」に全てが注がれていて、「ペトレンコは魔法使いではなくて指揮者である。ムラヴィンスキーのロシア流派とビューローからフルトヴェングラーそしてカラヤンへの輝かしい卓越を結びつける様な指揮者なのである。ペトレンコは、パトスとその背景を注意深く精査して、愉楽をも拒むことなく、音響的な前提の細部までを構築して、劇場的な雑多な考慮に捉われることなく、内的な音楽的な発展で以って音楽的なハイライトへと搔き立てる。端的に、分析と言語的な理解を結び付けた最も幸運な事例が彼の指揮である。」となっている。
これに付け加えることはないだろう。まさしく四晩の「スペードの女王」で示されたそのオペラの世界はそこにあった。要するに事実上の芸術監督としてキリル・ペトレンコが祝祭劇場で示したチャイコフスキーの世界であった。パトスとその背景というのは、まさしくチャイコフスキーが主役のヘルマンに語らせた創作家自身の心情でありそのもの人間であった。そこにはパトスが示されたとしても、劇場にいる聴衆はそれがヘルマンによって語られることを知ることで、その音楽のパトス自体は劇場化して完結しているのである。
Festspielhaus Baden-Baden: Tchaikovsky: Pique Dame - Trailer
それがベルリナーフィルハーモニカーというゴージャスな楽団によって初めてその細部までを、即ち作曲家の細やかな思考や心情が不明化されることなく音化されることになる。そこで生じる例えば二幕におけるネオロココのその音楽の美しさは、そのものチャイコフスキーの心に響いていた音楽として捉えられる。それも、態々オークションで「ドンジョヴァンニ」の直筆を落として所持していたとされるように、モーツァルトのその心情へと想いを馳せたチャイコフスキーの気持ちがそのまま伝わることになった。
内的な音楽の発展というのは、そうした創作者の昂ぶりでもあって、劇場的なお膳立てがそれに立憚ることがないという事である。勿論それがチャイコフスキーの音楽のオペラの本質であることは間違いない。しかしこれほどまでの劇場表現を為した指揮者は歴史的にもいない筈である。最早比較は音楽監督グスタフ・マーラーぐらいしかないのであろう。
それだけに言いたい。このやり方は音楽劇場の通常の方法ではありえない。一体どこの誰がここまで創作者のそこにまで立ち入れることが出来るだろうか。珍しく上演数を熟してティテユス・エンゲルがそれに立ち向かうことなどできない世界なのである。まさしく天才の世界である。
参照:
天使が下りてくる歌劇 2020-09-29 | 音
作曲家の心象風景を表出 2022-08-22 | 文化一般
2020年度にはティテュス・エンゲルとキリル・ペトレンコが別けあったので記憶に新しい。今年は残念ながらエンゲルは入っていないが、そこは無理してベストプリマドンナに彼の指導で歌った「ブルートハウス」のフェラロッテ・ベッカーに驚愕の授賞となった。その公演は今世紀前半の最も重要なオペラ公演であったことは間違いないので、何とかこじ入れたという感じがする。
ペトレンコの授賞理由は、オペラを振る唯一の機会であるバーデンバーデンの復活祭でただ四回だけ指揮した新制作「スペードの女王」に全てが注がれていて、「ペトレンコは魔法使いではなくて指揮者である。ムラヴィンスキーのロシア流派とビューローからフルトヴェングラーそしてカラヤンへの輝かしい卓越を結びつける様な指揮者なのである。ペトレンコは、パトスとその背景を注意深く精査して、愉楽をも拒むことなく、音響的な前提の細部までを構築して、劇場的な雑多な考慮に捉われることなく、内的な音楽的な発展で以って音楽的なハイライトへと搔き立てる。端的に、分析と言語的な理解を結び付けた最も幸運な事例が彼の指揮である。」となっている。
これに付け加えることはないだろう。まさしく四晩の「スペードの女王」で示されたそのオペラの世界はそこにあった。要するに事実上の芸術監督としてキリル・ペトレンコが祝祭劇場で示したチャイコフスキーの世界であった。パトスとその背景というのは、まさしくチャイコフスキーが主役のヘルマンに語らせた創作家自身の心情でありそのもの人間であった。そこにはパトスが示されたとしても、劇場にいる聴衆はそれがヘルマンによって語られることを知ることで、その音楽のパトス自体は劇場化して完結しているのである。
Festspielhaus Baden-Baden: Tchaikovsky: Pique Dame - Trailer
それがベルリナーフィルハーモニカーというゴージャスな楽団によって初めてその細部までを、即ち作曲家の細やかな思考や心情が不明化されることなく音化されることになる。そこで生じる例えば二幕におけるネオロココのその音楽の美しさは、そのものチャイコフスキーの心に響いていた音楽として捉えられる。それも、態々オークションで「ドンジョヴァンニ」の直筆を落として所持していたとされるように、モーツァルトのその心情へと想いを馳せたチャイコフスキーの気持ちがそのまま伝わることになった。
内的な音楽の発展というのは、そうした創作者の昂ぶりでもあって、劇場的なお膳立てがそれに立憚ることがないという事である。勿論それがチャイコフスキーの音楽のオペラの本質であることは間違いない。しかしこれほどまでの劇場表現を為した指揮者は歴史的にもいない筈である。最早比較は音楽監督グスタフ・マーラーぐらいしかないのであろう。
それだけに言いたい。このやり方は音楽劇場の通常の方法ではありえない。一体どこの誰がここまで創作者のそこにまで立ち入れることが出来るだろうか。珍しく上演数を熟してティテユス・エンゲルがそれに立ち向かうことなどできない世界なのである。まさしく天才の世界である。
参照:
天使が下りてくる歌劇 2020-09-29 | 音
作曲家の心象風景を表出 2022-08-22 | 文化一般