Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

プーティン登場の音楽劇場

2022-03-17 | 
承前)ムソルグスキー作「ボリスゴドノフ」にロシアの歴史が描かれている。ボリスゴドノフが民衆に祀られ権力を掌握と同時にツァーになる。しかし、その権力によって民衆の希望も叶えることは容易ならず、そこへの道程への過去が炙り返され、主人公の死によって、再び民衆が次なる権力に期待する。ムソルグスキーが描いたのはその各々の心理である。それが明白な形でオペラ作品としては異例な原典版の特徴となっている。

そのような権力構造描写から少なくとも2014年以降の新制作ではプーティン大統領のフィギュア―が舞台に登場することは必ずしも珍しくはなかった。所謂演出による台本の読み替えなるものである。しかし重要なのはムソルグスキーの創作の何を舞台化するかである。それは決してギャグや風刺ではない。その音楽に描かれるところのツァーのみならず民衆迄もにルーペを当てた表現を今日の我々にも体感できる様に舞台化しなければ公演の意味がない。それをまたは極度に抽象化して音楽だけをコンサート形式で聴いても決して体験できないのが音楽劇場の表現である。

シュトッツガルトの劇場では、ムソルグスキーのオペラとしては不完全な原典版を如何にして音楽劇場作品としてのプロジェクトとするかにおいて、セルゲイ・ネヴスキーの新曲をそこに挟みこむことになった。よって、最初から演出家のパウル・ゲオルクディ―トリッヒと依頼された作曲家が話し合い、これまたソヴィエト時代の大衆の記憶を纏めたノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクセイヴィッチの「セカンドハンドの時代」への作曲の挿入個所などが決められた。作曲家はその前後の和声関係にのみ配慮することで創作とした。

つまり、ネヴスキー作曲「セコハンの時代」はそれのみで成立している歌詞のついた独立の作品でもある。この繋がりに関しては、指揮者のティテュス・エンゲルがプログラムにも語っていて、ムソルグスキーの作品を異なる形で指揮するならば演奏解釈が変わると明確に語っていて、恐らくネヴスキーの作品の単独の解釈も変わるだろうとしている。

そして、初日シリーズの映像と比較して、その生の音響との差もあったかもしれないが、ネヴスキーの音楽の冴え方は瞠目すべきものだった。正直映像においてはムソルグスキーの音楽演奏実践を注視していたので、楽譜も何も手元にないネヴスキーに関しては生演奏でとは考えていた。しかし、あそこ迄音色的にも作曲技法的にもそして何よりも内容的につまり感覚的、感情的にもとても理にかなった音響迄は期待していなかった。ポリフォニー化においても、形だけバルコンなどを使ったマトリックス音響ではなくて、とても纏まりつつ多大な効果を上げていた。今回の再演に合わせて作曲家が現地に入って直接関与していただろうことがよく分かった。

ネヴスキー「セコハンの時代」は、そのアレクセイヴィッチの原作自体がとても音楽的だとされるのは、その句読点などの使い方にもあるようだ。ウクライナの旧ハプスブルク領レムベルク郊外の南の街に1948年に生まれたこの女性は、父親がベラルーシ人であったことからミンスクで育ち、新聞社のジャーナリストになる。そこでの仕事の中から生きた声をドキュメントするという事で、モスクワ等でも大成功して二万部が売られた「女たちの顔の無い戦争」にその手法がとられている様である。ペレストロイカの1985年のことで、その後アフガニスタンを描いた1989年の問題作等を通して、2010年には不正選挙のルカシェンコ大統領に公開書簡、 2013年に「セコハンの時代」で自国では出版禁止となる。(続く
Gespräch mit Swetlana Alexijewitsch, Die Oper "Boris Godunow"

2020年2月の「ボリス」初日に際して、シュトッツガルトでインタヴューにこたえるノーベル文学賞アレクセイヴィッチ。



参照:
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
歴史のポリフォニー今日 2022-02-23 | 文化一般https://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/f819507f38062a2924aeee385410a8f6
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マンデルにモンドが晩出る

2022-03-16 | アウトドーア・環境
歯医者の予約が取れた。前回コロナ禍初期にブリッジを架けて以来丁度二年経つ。流石に具合が悪くなってきた。ブリッジ部分はいいのだが、反対側が糸切り歯が刺激を受けるので使えない。またブリッジの奥の出血が止まらなかったところ周辺の歯石などが具合が悪くなってきた。マスクも徐々に解放されるので口臭予防にも是非清掃と右側の調子悪いところにも手当が必要だ。

つまり3月20日が過ぎて、コロナ特別法が無効になった後で、復活祭が始まる前に行きたかった。しかし電話をすると7月までは空いていないとなった。なぜかというと歯科衛生士の手がなくて空かないのだという事だった。誰が辞めてしまったのかは分からないが、中々大変である。

しかしこちらもそこ迄おいておくと調子が悪くなると引き下がらでいると、キャンセルが出たら連絡してくれるとなった。幸い電話がかかって来て、27日に夏時間が始まる前迄の24日に空いたというので、予約を確定した。

これで足の調子も大分正常化してきたので、あとは眼鏡だけで表面上は健康になる。ポストコロナである。コロナを理由にしてうろうろはしていられなくなる。完全に活動再開しなければいけない。

月曜日に給油序に2キロ程走ったが、全然スピードが出ていなかった。足の調子は大分よかったが、なぜか最高速度も出ていなかった。理由は分からない。心拍数、歩測とも170を超えていた。足の調子は痛めた左足の爪先だけで立てるようになったので、又使った後に悪くはなっていないので、更に使える。水曜日に走れて、その時の様子で金曜日を走るのもいいかもしれない。頂上往復も足を痛めない範囲でも可能性が出てきた。

音楽芸術のセンスのないところに時代錯誤とか歴史修正主義とかを探し見つけるのを専門にしている人もいる。私もそうした興味もあってカウンターとしても活動している。要するに批評という事でもある。その中でも結構重要なのは、メインストリームからは外れてそれ程社会的な影響力も無いのが現代音楽部門である。そしてそこにセンスの良さや悪さを指摘するのは可也専門領域に属すると思う。

特に同時代的な創作や演奏となり初演などとなれば双方を同時に鑑定しないといけない。中々技量や経験がいる。先日観客を入れて初日に漕ぎつけたマインツのノーノ作品の新制作「真っ赤な太陽」にしても、モダーンの古典だけに上演にはそれなりの難しさがある。未だ新聞の批評記事等は読んでいないが、結構既演されている作品だけに可也の出来でないと上演の意味がない。今後とも残るような作品を上演するとなればそれだけの覚悟を持った制作でないと意味がない。下手な怠い演奏なら奥さんのシェーンベルクの娘らには印税が入るにしても、亡くなった作曲家本人には十二分にありがた迷惑というのもあり得る。

場所やクローンによってはまだ開花が始まっていないアーモンドの木がある。背景に月があった。ドイツ語ではマンデルにモントが晩出るである。



参照;
バラの月曜日の花冷え 2022-03-01 | 暦
アーモンド咲き乱れる頃 2021-03-25 | アウトドーア・環境
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外国国歌を起立して歌う馬鹿

2022-03-15 | 文化一般
バーデンバーデンの空き室情報を見た。復活祭中にも例年にはないほど空いている。少なくとも二年前の最初の中止の前の状況より悪い。海外からの足は遠のき、その代わり近隣欧州諸国からの訪問者は増えたという。しかし団体旅行などのマスはこなせない。

なによりも実質上の復活祭の芸術監督キリル・ペトレンコの知名度は前任者のラトルにはまだ到底及ばない。そういうところにメディアとの繋がりの差が出てくる。だからせめて登場する歌手ぐらいはビッグネームとか大人気ものが求められていた。目玉だったアスミク・グリゴーリアンのキャンセルで追加の集客力はあまり期待されなくなってしまった。少なくとも彼女がSWRなどのインタヴューを受けたりしていればフランクフルトやミュンヘン辺りからも見込めたのだった。

さて、通常は地元の放送局SWRで前宣伝を兼ねて、三月には復活祭関連の番組が並ぶはずなのだが、なぜか4月17日復活祭初日と18日二日目に昨秋の延期されたミニ復活祭の番組が並ぶだけとなっている。これでは宣伝効果は全くない。どうしてこのようなことになっているのかは分からないのだが、考えられるのは映像のパートナーである独仏共同文化波Arteが予定されていた通り上の同時刻に新制作「スペードの女王」最終日を生中継するのかどうかが関心の集まる所である。

少なくとも日曜日のドレスデンからのオペラ中継の番組では三月末の予定しか明かされずに、含みが残されていた。理由は分からないのだが、通常ならば追放される指揮者のティーレマンが最後にザルツブルクでオペラを振るのだから、何もまだドレスデンで公演があるそれもヴェルディの「アイーダ」を中継する必要などはなかった。意味不明であり、演出も危なっかしいもので、中継に出てきていたタイラー支配人の話しぶりも優柔不断な感じで解せなかった。結局ティーレマンの就任且つドルニーの左遷には州の政府がそのまま係わっていただけで、上が代われば全てが変わるという機構になっていることがよく分かる。そこには西ドイツにおける我々のような騒ぐ人間がいないということで、まさしく芸術的な社会程度の低さを其の儘露わにしている。

「アイーダ」が戦争を扱っているといってウクライナ国歌を演奏して起立するシーンは馬鹿そのものであって、私がいればブーを上げ続けていたと思うが、私達のような感覚の人間はそんな催し物にはそもそも行かない。それがセンスの差なのである。

さて、バーデンバーデンもそろそろ来年のプログラムが正式に発表される。ロシア音楽から一挙に大テーマは変わり、リヒャルト・シュトラウス「影の無い女」を中心にシュトラウスに何が混ぜられるのか。昨年のモーツァルトが再び取り上げられることがあるのかないのかなど、情報を持ち合わせていないので分からない。

しかし何よりもそこでの配役がとても気になる。染物屋はヴォルフガンク・コッホでまず間違いないだろうが、嫁さんを誰が歌うのか?ニナ・シュテムメでもよさそうだが、皇帝と皇后のペアーの方が難しい。再演の時はメルベートとかだったが、昨年のミュンヘンのお別れガラでの初日シリーズのピエツォンカはやはり声が違った。皇帝も亡くなったボートほどの声を探すとなるとなかなか大変である。それ程遊びも余裕もないと思う配役である。



参照:
公演曲目を確認する 2022-03-14 | 歴史・時事
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評

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公演曲目を確認する

2022-03-14 | 歴史・時事
復活祭が近づいてきた。バーデンバーデンでは、ペトレンコを中心に新制作「スペードの女王」の練習が行われている筈だ。本日もデンマーク四重奏団の演奏会もあるので出かけようかと思ったが少し億劫で止めた。

その代わりに準備をしておこう。どう総稽古から出かけないといけないので二週間以上は通う事になる。片道100KMを超えるのでそれなりに疲れる。

先ずは公演曲目を確認する。「スペードの女王」以外に、「イオランタ」全曲、更にストラヴィンスキーの三大バレー曲、「運命」と「ティルオイレンシュピーゲル」、「妖精の口づけ」、ヴァインベルクのトラムペット協奏曲、二曲未定、その他パユのグリンカのトリオ「悲愴」とリムスキーコルサコフの五重曲ロ長調に出かける。

これだけなら「スペードの女王」に時間を費やせるが、未知の変更になる二曲が手応えがあるものとなると結構大変だ。ネトレブコが欠場となって変更になる聖水曜日なのだが、後半に「火の鳥」で、前半に「死の鳥」と「ロメオ」か「リミニ」なんかで簡単に決まっていないのが不思議。「ヴォカリーゼ」も演奏の予定だったから、新しい曲を入れるつもりだろうか?ムソルグスキー作品辺りが入れば大喜びである。

ウクライナ政府外交官の態度があまりに不適当なので世界中で問題になっている。その東京在任ウクライナ全権大使は、ひょんなことで、ロシア軍の戦争犯罪に関して東欧の人が語る「赤軍が通ると草木一本無くなる」、「ナチは殺戮を繰り広げた」と書くと激しく反応していたようだが、訳が分からなかった。しかし赤軍はまさにウクライナ軍の事だったと自覚があったのかもしれない。

それどころかロシア文化に関する研究にまで口出しを始めたというから、まさしくネトウヨのプーティン大統領が語るウクライナのネオナチつまりネトウヨの修正主義者と分かった。

一方在ベルリンのウクライナ大使は、TV報道番組で語る前連邦共和国大統領ガウクが慎重姿勢を見せたので、それを罵った。勿論駐在する国の前国家元首を罵る全権大使などはどこにもいない。

要するにウクライナには外交官に適する人材すらいないのである。歴史修正主義の大使しかいないような国だから国の統制も出来ておらず駄目になるのだ。既にSNSでも炎上しており、「ドイツは国境を護り、ウクライナ大使らは国に戻り護ればよい」と正論が語られている。

連立与党FDPの議員もこのウクライナ大使を批判しており、先日もフォアプロムンの知事とも悶着を起こしていた。

私も「早く帰任しなさい、国があるうちに」と書き込んだ。程度の低い外交官の国とは交渉など不可能である。紛争のある国はEUには加盟できず、当然NATOも無理なので、傀儡政権樹立も時間の問題となっている。



参照:
ドイツ系移民モーツァルト 2022-03-11 | 文化一般
芸術音楽が表現するもの 2022-03-07 | 文化一般
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バーデンバーデン市事情

2022-03-13 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ紙がロシアとバーデンバーデンの繋がりを政治欄で記事にしている。期待するようなカジノとオルガルヒのマネーロンダリングには触れていない、しかし歴史的な背景を含めて俯瞰且つ日曜日に行われる市長選挙の様子が伝えられている。

三人の有力候補が、現職のCDU、それに対抗して第一勢力の緑の党、そして自由党の三人らしい。ゲルギーエフの扱いに関してAfDが祝祭劇場のスタムパ支配人を批判して辞めさすなと異議を申し立てたことは既に伝えたが、自由党も解任は間違いだったとしている。プーティンに挨拶するぐらいで辞めさせるなんて象徴的政治でしかないと語るが、その本人が100人ほどの文化協会の会長を辞めるべきかどうか問われていて、ロシア人半数の団体で辞めないと否定する。そもそもプーティン支持のデモなどは起きないからだと。AfD同様にネトウヨだから大した評は取らないだろう。しかし緑の党のカイザーは、今後はこの十年の傾向でロシア人の比率はどんどん下がってくるとしていて、東欧からの難民受け入れなどで関係を強化という。現市長のメルゲンにはコミュニケーション能力が欠けるとしている。

そのバーデンバーデンとロシアとの繋がりは1793年のバーデン公のプリンセスルイーゼがツァーのアレクサンダー一世と婚姻したことで、ベルリンと並んでロシアで最も有名な都市名となっているらしい。ツルゲーノフ、ドストエフスキー、ゴーゴルなどがバーデンバーデンで創作活動をしていたことも知られ、最近の有名なゲストではプーティンと変わり番子に大統領になったモドヤーエフが自家用機で仕事仲間のいるゾーリンゲンに飛んできてこちらに滞在していた。しかし多くのロシア人旅行者にはコートダジュールへの中継点となっていた様である。それでも年間九十五万宿泊日の8%はロシア人だったのが2013年の最盛期。

その他、定住者は55000の人口の3000人がロシアかウクライナ関連の住人である。よって、街のピッツェリア「リザッタ」にはキャビア入りピザが27,90ユーロで提供されていたが、今は材料が入らずに出していないという。勿論それを注文するお客さんもいなくなったという事らしい。

こういうことも配慮しながら祝祭劇場にも今後とも色々と工作をしていこうと思う。
Trailer Osterfestspiele 2022 Baden-Baden Berliner Philharmoniker


週二回目のランニングも同じく短いコースを走った。そろそろあまり左足を庇うことなく上れるようになり、下りだけはあまりショックを与えないように注意する。次に頂上を一月ぶりに狙えるかどうかは疑問だけれども、普通に走れるようになってきた。週末に酷くなるようなことがなければ、爪先立ちも出来るようになってきたので、全快に近づいて来ると思う。来週中に頂上コースに復活できれば良い。

但し体重が72㎏と増えてきたので、天気も良さそうな時にボウルダリングなどを挟んで本格的に身体を動かしたい。週末は復活祭へのお勉強を少なくとも準備を整える。

街の役場広場では敷石を直していた。新しい石を一つ一つ手で嵌めこんでいく。勿論最初に厳密に採寸して数を押さえるのが重要であるが、時々端に隙間のあるような事も少なくない。



参照:
Derzeit keine Pizza Kavier, Rüdiger Soldt, FAZ vom 11.3.2022
上手く機能したストッパー 2022-02-27 | アウトドーア・環境
『スペードの女王』へと 2022-02-08 | 文化一般
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呼び起こすDNAの記憶

2022-03-12 | 文化一般
承前)ムソルグスキー作「ボリスゴドノフ」はプーシキン1870 年のドラマが原作である。そこで描かれているのは1700年前後にツァーとなった題名の歴史上の人物であり、それを取り巻く人々であった。そのオペラがペテルスブルクで初演されたのが1874年。

ここで取り分け興味深いのは、そこからの改定となった初版の特殊性だろうか。権力者とその取り巻きはシェークスピア風の描かれ方がされている一方、市民だけでなく飲み屋の女将や殺めた筈の偽前ツァー継承者などがツァーと同じように描かれる。その中心には歴史を記録するピーメンがいて、オペラ舞台の規範である一日で終わるようなものではない、前後するような描かれ方となっていて、それが最も改定の原因となっている。

その時間の間隙にソヴィエトの市井の人々の記憶を描いたノーベル賞受賞作者スヴェタラーナ・アレクセイヴィッチのオムニブス小説「セコハンの時代」が舞台化されて嵌め込められる。それによって何が描かれたか。通常の上演の様に「ボリスゴドノフ」のみによって歴史ドラマのオペラとしての普遍化は可能であるが、そこに初版の失敗を埋め合わせるだけの企画が為されていた。

つまりムソルグスキーの原作が元来有する社会や意識の多層性に加えて、時間の断続に生じるデジャヴ効果に表徴されるカタストロフィーを含有させるのみならず、そこから更に20世紀のソヴィエトでの六つのエピソードを次々とそして最後には重ねて舞台上で表出させる。つまり個が衆となる。

それによって得られるのは、ムソルグスキーでの女将やゴドノフの許婚を亡くした娘などをセコハン時代の女達などとして歌わせることで、今度はその個々人の中に潜むDNAの記録として捉える。そこには各々にトラウマと希望が含まれていて、それは同時に今日から過去、過去から今日、そして今日から未来へと時間のヴェクトルが交差することで世界を認知することになる。

通常のオペラ上演は、精々今日からの視座で作曲年代の背景を描くことで作曲家の想像した舞台への思索を表出させるか、若しくは読み替えとされるように今日から作曲家の目を通して描かれる舞台などの形をとることになる。しかしそれだけで描き切れないものを「ボリスゴドノフ」が内包していたと考えて、演出が抽象化される場合も少なくないであろう。

それによって何が得られるか。地元紙シュトッツガルトの土曜日の再演での評の見出しがそれを暗示している。そこには、副見出しとして「州立オペラの舞台がウクライナ戦争に対峙して、ツァーとマニプレーションのオペラが今日にきわめて作用する。」としてある。これで十分ではなかろうか。

ヴァルシャワの様にロシアのオペラだから上演しないのはありえないとして、ロシアの歴史を扱うオペラだからこそ今日に働くのだ。それはプロジェクト「ボリス」だからなのか、それとも「ボリスゴドノフ」でもなのか。そこで初版か改正版かなどの差異が出てくる。それがプロジェクトコンセプトであり、演出の仕事なのだ。東京の新国で発注されたポーランドの演出は時流に適さなかったものなのだろうか。流石にそんなことはないだろう、少なくとも2014年以降に企画されている演出では無関係はありえない。(続く
「ボリス」、英語字幕版
#OpertrotzCorona: BORIS (English subtitles) | Staatsoper Stuttgart




参照:
芸術音楽が表現するもの 2022-03-07 | 文化一般
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
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ドイツ系移民モーツァルト

2022-03-11 | 文化一般
シュトッツガルトにある州議会からの演奏会が水曜日の19時から議会終了後にに生中継された。議会から劇場が招聘されて「平和へのアピール」の音楽会を行った。劇場でも聴衆に招待が為されていた。そこではロシア音楽を中心に室内楽が劇場の東欧からの出身の演奏家によって奏でられた。

そこでの劇場の音楽監督コルネリウス・マイスターの挨拶が良かった。この手の演説の一面的で表面的なものではない音楽家的な感性での発言だった。既に劇場のサイトにはその要約が載っているが、その口調とか話しぶりも含めて、とても気障っぽく人気がない指揮者のその人物像を表していた。

芸術文化の基本には民主主義があってそれは2400年の歴史を遡る。これに関しては様々な意見があるかもしれない。しかし、話者が立つ位置として民主主義を挙げた。それが最も優れた形であって、同時に「民主主義」を御旗にした(程度の低い)他国への攻撃を諫める。

その根拠として、代表的な国スイスでさえ女性参政権が1990年までなかったカントンアッペンツェーラーがあることをして、決して他国を上から見下ろしてとやかく言えるものではなく、先ずは私たちが民主主義へと日夜絶え間ない努力をしていくことでしかないと語る。

つまり、違う社会的な発展をしている社会出身の人に対して、そのような視線を送るべきではないとしている。ロシアのパスを持っているからとして嫌疑をかける正当性が何処にあるだろうと疑問を投げかける。当然の事乍ら、繰り返して人道に反するウクライナ侵攻の恥さらしには大きな声を上げる。

勿論個人的には、発言の自由が保障されてそしてそれを推奨してもお咎めの無いものを得ていることは掛け替えのないことだが、この様な状況は世界のとても少数の人にしか与えられていないと発する。だから音楽芸術においても、それが何処に所属するかなどは興味がないとする。

実際にそのエポックによっては必ずしもその流派に属するかなどは決して容易ではないとして、ヴェルディをフランス人、モーツァルトをバイエルン人、そして父親系列からすればシュヴェビッシェからの移民背景があったのだとして会場の笑いをとる。

この話によって、同時に出自や性や肌の色、そして国籍などのよっての差別ではないものが民主主義であるとしていると同時に植民地主義的な文化的な背景を持った民主主義を非難している。

ここまで聞けば、この人が今最も首都ベルリンのウンターデンリンデンの歌劇場の次期音楽監督に近い人である事の疑いを持たないだろう。
Friedenskonzert für die Ukraine | 9. März 2022 |




参照:
Demokratie und Kultur, GMD Cornelius Meister hielt im Rahmen des Konzerts eine Rede, 09.03.2022
音楽劇場のそのセンス 2022-03-08 | 音
一派の枢軸となるだろうか 2021-12-28 | ワイン

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どっちでもよかったんだ~

2022-03-10 | 
心身ともに堪えた。この様な気持ちは何年ぶりだろうか?まさに女に三下り半された男の気持ちだ。アスミク・グリゴーリアンのキャンセル情報を探っていくうちにほぼ情報が出てきた。残念ながら地元TVでのインタヴューはリトアニア語で理解が出来ない。書き抜き文字の自動翻訳からそれを追ってみることも出来てはいない。

ある程度気が付いていて、ファンの人達らしきもそのSNSを静かに見守っていた感じはあったのだが、やはり発信が急に減った。ミラノでの「スペードの女王」初日が終わってからだ。それが最後にゲルギーエフは下ろされるのだが、聴衆の反応は幾つかのブーイングがあったのみで喝采に包まれていたらしい。

しかし主役の本人が語る様に、このコロナ期間もパニック症候群に悩まされていて、メタブロックという薬を使ってアドレナミンを制御していたという。元々ドキュメンタリー映画でも撮られているが、舞台恐怖心がある人でどうも初日となると上手くやれるかどうかで苦しむらしい。フランクフルトでの映像でも顔が真っ青になっていた。
Oper - Das knallharte Geschäft


自身の才能への自信も当然の事乍ら人一倍強く持っていてもそれはまた違う。そのようなときに決して疎遠ではない指揮者ゲルギーエフが下されて、更に各方面で叩かれているのをみては、何ならかの燃え尽き症のような症状になるのは素人でも想像できる。それ程にこの二年間、先ずはワクチン接種もなく、コロナにも感染しながら誰よりも活躍していた歌手の一人だった。

そして、人間にとって何よりも大切なのはセンシビリティーであって、それが人類の力だと語っている。つまりセンシブリティーで人を想い庇うことが出来ると語っていて、まさしく今回一連の騒動での感じ方を語っている。だから、センシブリティーがこの世界では薄れてきていると言う。

個人的にはここまで耳を傾けて、とてもよく分かると同時に、自分の胸の手を当てざるを得ない。なるほどバーデンバーデンからのゲルギーエフ一座の追放は瓢箪から駒の願ってもいなかった成果であったが、まさかアスミク・グリゴーリアンを復活祭から失うとは思わなかった。襖の隙間から鶴の機織りを見てしまった取り返しのつかぬような思いである。本当はゲルギーエフなんかどっちでもよかったんだよーと叫びたい。

同じようにベルリナーフィルハーモニカーと共に踏み込んだ発言までをしてしまったペトレンコ、どちらの方が悔やんでいるかは分からない。出たら出たでとことん音楽を詰めてもらいたいと思っていたのは私達である。バーデンバーデンの方では若々しい雰囲気の悪くないロシア女性が代わりを務める。グリゴーリアンでどうしても本格的ロシアオペラをという気持ちはあるが、春や夏までには世界情勢も落ち着いて復活して貰えばそれでよい。
バーデンバーデン祝祭劇場で始まった練習打ち合わせ風景:
Vorhang auf! Probenstart für „Pique Dame“ im Festspielhaus Baden-Baden


復活祭はアナ・ネトレブコとアスミク・グレゴリーアンの二人の大きな話題性のある顔を失い、残るはソニア・ヨンチェヴァだけとなった。オペラでの成功はこうなれば演出が時局に合わせて上手く嵌まるかどうか、そこに掛かっている。一方、こうした音楽劇場としての上演の大変さを考えるとバーデンバーデンの祝祭劇場がどこまで出来るのかとも思う。



参照:
Asmik Grigorian nuolat kovoja su panikos atakomis scenoje: išbandžiau viską, išskyrus hipnozę, Andrius Rožickas, LRT PLIUS laida „Stambiu planu“, 2022.03.05
ほぼ決まった今夏の予定 2022-03-09 | 女
悪魔に対峙する人々 2022-02-17 | 文化一般
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ほぼ決まった今夏の予定

2022-03-09 | 
今夏の予定が殆ど決まった。ザルツブルク音楽祭からの配券があった。希望通りの券を貰った。昔のパトロン時代の影響はないかもしれないが、一昨年の苦境の時に高額券を買ってあげた義理はあるだろう。

バイロイトにアスミク・グリゴリアンが出ないことになって、またミュンヘンへは6月中に出かけてしまうので、7月はゲルギーエフが下りたところに誰が入るかに興味が未定であって、それ程の実力者が入りそうにもない。メータ指揮ならばとは思わないではないが、それならば決まっている筈だ。

そこで目をつけていたエアルのティロル音楽祭の日程を再確認、すると前日のエンゲル指揮ブラームスツィクルスIIに安くていい席が空いていた。早速宿を調べると65ユーロでミュンヘン―ザルツブルクアウトバーンから少しだけインタールに入った所に空き部屋を見つけた。

1月に話題となったベルリンでペトレンコが指揮した交響曲二番と三番を立奏で演奏するようだ。立奏自体はガーディナー指揮でフランクフルトで聴いて失望したが、これはこれで期待したい。なによりも気持ちの良い場所でこの二曲の交響曲を愉しめる。特に第三番はハイティンク指揮コンセルトヘボー管弦楽団で聴いて以来だと思う。第二番は記憶にない。

順風満帆かと思いきや、週末にアスミク・グリゴーリアンの復活祭キャンセルが流されていた。忙しくて気が付かなかった。理由は健康上の理由で、練習に参加できずに本番もそのあとのベルリン迄歌えないという事になっている。しかし、既に二月のミラノでのゲルギーエフ指揮での初日の後にキャンセルが囁かれていたようなので、恐らく本当の理由は異なるであろう。

今回の侵攻に際して双方に上手なステートメントを呟いていたので、それで終わるかなと思っていたが、想像するにやはりロシアンマネーの影響があるかもしれない。自身のオペラ学校の資金がそこから出ているとすれば指揮者パーヴォ・ヤルヴィに掛けられた疑惑と似ている。

そして何よりもキリル・ペトレンコとベルリナーフィルハーモニカーの声明が具合が悪かった。独政府の資金がこちらにも流れている。しかしあそこ迄具体的にプーティン政府を糾弾する必要はなかったであろう。特にキリル。ペトレンコにとっては汚点であり、今後イスラエルが同様な行いをした場合どうしても指揮者でサイードの協力者バレンボイムの様にとても政治的な立場を要求されるようになるからだ。芸術家であるよりもピアニストのイゴール・レヴィットのような政治家になってしまうのである。

因みにグレゴリアンの代わりには、モスクワから比較的若いベツドクコヴァが歌う。キャリア上も可也若いので、その意味からは期待される。ドイツではヴィースバーデンに2017年に登場していて、またそこで3月にも「スペードの女王」を歌うので白羽の矢が立ったのだろう。それとも初めからカヴァーで考えていたのか?



参照:
LANケーブルで中継 2022-01-29 | マスメディア批評
悪魔に対峙する人々 2022-02-17 | 文化一般
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音楽劇場のそのセンス

2022-03-08 | 
承前)シュトッツガルトの劇場では公演前に支配人ショーナーと作曲家のネヴスキーが合唱団を背にして舞台袖に出てきた。ウクライナ侵攻に関する挨拶だと思ったが、まず最初に陽性により欠場する歌手に関して断りがあった。

特に重要なのは、主役のボリス・ゴドノフを陥れる腹心のシュイスキー侯爵役の変更だった。そこには週末に日本でも話題になっていたヴァルシャワでの新制作「ボリスゴドノフ」出演役だったマクシム・パスターが当日朝ヴァルシャワから空路で飛び入りした。決してそのような交代が珍しい訳ではないのだが、ウクライナ出身のチャイコフスキーコンクールで優勝している歌手であり、ポーランドではそのような東京の新国劇場との共同制作などは「重要ではない」という事で中止になったとあった。ロシア音楽上演を中止するような方向に動いているのはまさしくEU内でお荷物になっているハンガリーと並ぶネトウヨ政権のやりそうなことなのである。

要するに東欧の若しくは東ドイツなどではまだまだそうした政府と市民、更に文化などとの間の違いを認識できない教育の無い人民が選挙権を行使しているのである。両国ともその民意という点では歴史的にも日本に似ている東欧の国である。勿論ウクライナはそれよりも程度が低い。

そして、モスクワ在住のネヴスキーから二言三言があって、ウクライナへの連帯ではなく侵攻犠牲者への黙想となった。そして直ぐに着席の儘でと声を掛けて、とてもスマートなやり方だったと思う。こうしたところに劇場のセンスが問われていて、それを決めるのはやはり支配人なのである。

その舞台での挨拶は早口でやや左翼風の攻撃的な話し方に思われるのだが、指揮者のエンゲルと共に音楽劇場のワークショップを主催しているだけの故モルティエ一派だけのことはあると思う。

舞台でたとえどんなに高度な芸術を上演しても、こうしたところにもそうしたセンスが活かされていないことには、音楽劇場上演とはならない。日曜の晩にはミュンヘンでは支配人のやはりモルティエ一派のドルニー支配人が出て来て「EUの歌」が演奏されていたのだが、ここでは開演前に四団体合同で劇場前で広く市民を集めて演奏されていたのである。この違いがそのあとのミュンヘンでは新制作「ピーターグライムズ」とシュトッツガルトでの「ボリス」の芸術程度の差として表れているとしても構わない。

なるほどミュンヘンの方は新制作初日でもあったので、戸外で催し物をするだけの余裕はなかったのであろうが、シュットガルトの方は音楽監督のマイスターも劇場前の楽団でチェロを弾くなどそこでの連帯を明らかにしていた。そうした顔がそこにいるのも重要で、音楽監督がベルリンにいるミュンヘン劇場とは違うのである。(続く



参照:
芸術音楽が表現するもの 2022-03-07 | 文化一般
卒無く間隙無しに 2022-02-04 | 料理
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芸術音楽が表現するもの

2022-03-07 | 文化一般
週末に様々なことが起こっていた。ベルリンからの中継に続いて注目されたのはモスクワのボリショイ劇場の指揮者の辞任だろうか。ロシア語情報を追いかけてはいないので良くは分からないが、少なくとも公式なステートメントとしては当然の事ながら従来から戦争反対でも政権批判はしない姿勢を示した。予想通りだった。なぜ予想できたのか?

つまり、フランスにおける常任ポストを下りた。要するにロシア政府との距離も置きながら、公職から下りた。直ぐに思い浮かぶのは1934年12月のナチ政権下での指揮者フルトヴェングラーの全公職辞任である。ユダヤ人でもないヒンデミートの音楽が退廃的な音楽として上演禁止になったのを受けた行動であった。これは基本姿勢としては日曜日の指揮者バレンボイムも言葉と同じ姿勢である。政治的にあまりにも素朴であったフルトヴェングラーの誤りは、音楽の力を以て世界を美へと向けることで変わるという信心があったことである。翌春にはベルリンのフィルハーモニカーには復帰するが、そのことで二年後のニューヨークでの新天地での出発も不可能になってしまった。

さて、こうした動きがなぜ予想出来るのか。確率論的に分析するまでもなく、我々はその音楽芸術からそうした判断の基となる思考を察しているからなのである。その点では、モスクワで活躍する元ヴァイオリニストのスピヴァコフが反戦の署名をしたことは喜ばしい。若いスピヴァコフの演奏を聴いていたので、その音楽はこうした勇気ある表明をするだけの清々しい精神に満ち溢れていたからである。

既に言及したようにゲルギーエフのザルツブルクデビューでの「ボリスゴドノフ」の演奏を聴いて、当時はプーティンなど無名であったのだが、現在の欧米から追放されるその音楽を確かめていた。その点、ボリショイを辞める指揮者ソヒエフの音楽も今後ともロシア国内外で受け入れられるのも分かっていた。

音楽が最終的に評価されるのは、職人的な技術の精査だけではない。それは我々のライフスタイルに合致するかどうだかであり、それがあまりにもトレンドだけに依存するものならば直ぐに評価が落ちて忘れ去られるだけの事なのである。要するに時代に訴えかけるだけの必然性と感覚がそこに備わっているかどうかだけである。

今回のプーティンによるウクライナ侵攻で、漸くそこにおいて、如何にも表面的なものの面が剥げて、特にプーティン政権の歴史修正的な姿勢とアナログの芸術表現などが駆逐されることはとても喜ばしい。ドイツにおいては、既に公職追放である指揮者クリスティアン・ティーレマンがアピールをしたPEGIDAの反イスラム主義やAfDなどの意見を代弁してゲルギーエフの解任に関して語っている。「個人的に、政治の話はしたことがないが、よく知っていて、同業者の指揮演奏会へ喜んで行くその一人の指揮者であった。今回の件はやり過ぎで、人間味がない」と期待通りの発言をしている。基本的な人権に触れるようなアピールを出しておいて人間味もないだろう。まさに彼らはプーティンと同じ理想らしきを目指すネトウヨの人たちなのである。

そして、新文部相ロート女史は、私達が力を入れるのは民主主義の為の文化と語っている。



参照:
"WIR MÜSSEN UNS EINSETZEN FÜR DIE KULTUR DER DEMOKRATIE", Tobias Ruhland, BR vom 28.2.2022
第三次世界大戦を警告 2022-03-04 | マスメディア批評
理不尽そのものの主張 2020-07-27 | マスメディア批評
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世界の実相が描かれる

2022-03-06 | 文化一般
シュトッツガルト劇場の「ボリス」再演を堪能した。これだけの制作の全体像をどのように書き伝えるかはまた別の問題である。結構な体験であり、恐らく音楽劇場制作としては今迄大劇場で行われたものでは最も完成していたものだと思う。
 
当然のことながらストリーミングで観たものと体験とはまた異なる。その異なる所が音楽劇場の核であるとしてもそれ程間違いではないだろう。

残念ながら前プログラムのモスクワの作曲家セルゲイ・ネヴィスキーと学者の対談には間に合わなかった。途中の工事渋滞で30分以上遅れてしまったからである。それでも劇場前のウクライナ支援演奏会は遠巻きで観れた。

そこでの市長などの政治家のプーティン糾弾やウクライナ難民受け入れのメッセージは劇場内のそれで十二分に客観化された。シュトッツガルト程度でも政治家はあの程度の発言しかできないのかと思う一方、だからこそこうした高度な芸術が公的に行われることの意味がより鮮明になる。

その意味からは、音楽劇場は全ての市民に開かれて、街の中に場を作るとするミュンヘンの劇場支配人ドルニーの考えとは矛盾するところもあるかもしれない。音楽劇場を体験するにはなにもそれ程の特別な知識や経験は必要がない。しかし、それだけのハイブローな意識や能力は欠かせないだろう。文字通り教養であり、こうした高度な芸術を育み、それによって更に高度な進化した人類が社会がとなる啓蒙思想の指すところである。

そうした進化した卓越した人々が社会を世界を形成するという考え方の丁度影絵のようなものがこの「ボリス」で創造された音楽劇場空間なのである。それがスヴェトラーナ・アクセルヴィッチのソヴィエトを描いた「セコハンの時代」であり、この「ボリス」のモット―となっている。

人によれば、プログラム冊子にある様に、そこにジャック・デリダの「マルクスの亡霊」における「理念や夢やユートピアの亡霊のような進化の理論を土台として、進化の名において、敗北の為の説明をするようなもの」とするかもしれない。若しくはヴァルター・ベンヤミンなど様々だろう。

劇場空間でそうした世界観ではなくて世界そのものをどのように幻出させるか?翌日曜日のベルリンからの中継にとても好適な演説があった。そこの劇場の音楽監督バレンボイムがウクライナ国歌を指揮した、そこ迄は上の市長の演説と主旨が変わらない。しかし、バレンボイム家はベラルーシやウクライナあたりからポムロムを逃れてアルセンチンに移住したと説得力のあることを語った。これこそがまさに個人の中にあるまた家族の中のある過去である思い出だ。しかし、同時に上の市長の発言の様にロシアの政治とロシアを決して同一視してはいけないと、それどころかロシアの文化や演奏家が排斥されたりすれば、最も辛い記憶を呼び起こすと警鐘を鳴らし社会のトラウマへと作用する。まさしくここに過去、現在、未来、そして各々の視座などが交差することで初めて世界の実相が浮かび上がる。

そうした実相の描き方が「セコハンの時代」であり、そこにつけられた新曲が「ボリスゴドノフ」に合わせて依頼されてつけられたのが制作「ボリス」の音楽劇場作品である。(続く



参照:
清濁併せ飲むのか支配人 2022-01-27 | マスメディア批評
引力場での音楽表現 2021-08-02 | 音
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インターバルトレーニング

2022-03-05 | 生活
何とか「ボリスゴドノフ」全曲を見き切った。でもまだ版の評価までは出来ない。気が付いたのは原典版らしきはブルックナーのハース版の様なエピソードが挟まれていることだ。反対に楽譜の二部、三部の長いところがごっそりと落ちている。どうも改訂版では女声の場面が書き加えられているらしいが、シュトッツガルトの制作ではそれに代わって一時間以上の新作部分が書き加えられて嵌め込まれている。

その部分の「セコハン時代」の挿入内容がまた激しい。ソヴィエト時代なのだがとても情動的な内容で、それこそ同様にシリアスな曲が挟まれていて折角のレハールの音楽が愉しめないとされたミュンヘンの「ジュディッタ」と同じような声が最初から聞こえる。

それもムソルグスキーの最も美しい音楽のような場面で挟まれてくるのだ。またまたティトュス・エンゲルの指揮がとんでもなく素晴らしい。敢えて言えばキリル・ペトレンコ指揮の音楽に欠けているものがそこにある。何回も書くようだが深く取られた拍とそこに和声的に重ねられる断面はチェリビダッケ指揮でしか聴いたことがないようなプリズム分光の様だ。ここまで悪い音のヴィデオで満足してしまうとあまりにも期待する生で聴いてがっかりしてしまうこともあり得る。

しかしここまでお勉強して確信を持てたところもあって、中々正しい評価はその辺りの音楽ジャーナリストには難しいと思う。まだ残された時間で自分自身もどこまで追い詰められるかよく分からない。そもそも「ボリスゴドノフ」自体が鷲掴みするには複雑だ。

演奏に期待するのは、細かなところの傷ではないがまだまだ追い込めそうなところを再演でどう出してくるかだが、指揮者の性格からしてペトレンコの様に徹底的にやってくるとも思えない。前半は流して来るのではななかろうかと若干心配である。

劇場の駐車場なども調べた。美術館のところがいいらしいが、それほど大きくなく、更に土曜日なので買い物客更にオペラ前広場でのウクライナ連帯演奏など人混みが予想される。通常は一時間半ほどの往路だが、余程余裕をもってセミナーを目指して出かける。駐車料金は18時まで高いがあとは4ユーロで何とかなると思う。

給油の序に少し走った。3キロのワイン地所の上の縁の道を往復した。歩いて初めて、平坦なので走らなければかったるいの出始めた8分ほど走って、歩いて折り返して見晴らし台で写真を撮って、最後にまた7分ほど走った。それでも平均のペースは山を上り下りするよりも早かった。山道ではキロ4.55分を出すのは結構厳しいのである。心拍数も158では到底収まらない。なによりも違うのが歩幅で片足痛めていても1,62mに延びている。

理由は足元が可也整地に近いからだろうと思う。それでもやはり足はまだ十分に蹴れなかったり、休ませていない方が同じように痛んできたりと、完全復帰までに時間が掛かりそうだ。でも手っ取り早く曲がりなりにも塗装していない道を走れるのはいいと思った。このコースも往復走り切れば結構いい運動になり、準備も入れても30分かからない。足元の状況でこれだけ違うものかと思った。



参照:
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
「無力ではないのです」 2022-03-03 | 文化一般
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第三次世界大戦を警告

2022-03-04 | マスメディア批評
ソックスが届いた。足を守ってくれると思う。まだ暑さがないうちがとても気持ちいい。走れるかどうかは分からないが、最低30分ぐらいは足を動かしたい。走れば走れるだろうが、出来れば二日続け手足を動かした方が健康によい。ぐっと我慢して調子を見よう。

週末の為に燃料も最小限容れなければいけないが、高騰していて最低価格を見つけるのも難しい。シュトュツガルト往復で25リットル程容れたいが、ここ二三カ月の最低価格からリットルで20セントほど上がっている。つまり5ユーロ余計に掛かる。お茶を飲むぐらいの価格だ。近場でもピクニックの準備は必要かと思う。

15時からの「ロシアの現状」セミナーに出かけようと思うと出かけるのは13時半前で帰宅は22時半頃だから9時間以上の小旅行となる。軽食を持って行かないと駄目だろう。

ミュンヘン市のフィルハーモニカー指揮者ゲルギーエフへの業務停止に関する情報が地元のバイエルン放送協会から出てきた。市の最も高給取りとされたゲルギーエフへの法的な保護つまり違約金などが発生しないかどうかの点に関心が集まる。場合によれば2015年に反対を押し切って契約、更に緑の党の反対にも拘らず2025年まで契約を延長した市長の政治責任が問われるからである。

そこでBRのジャーナリストがこの業界で著名な弁護士であるベルリンのラウエ氏に尋ねている。結論からするとラウエ氏はゲルギーエフに二か月の給与以上の請求をする価値がないと答えるという。理由は、市の体面を傷つけるので業務停止するで十分な様である。更に労使契約もこの市の顔となるような要職には為されていないので行政裁判所に訴えることが出来ない。そこでの判例として隠れ極右市役員の業務停止にもその理由が認められていて、今回はフィルハーモニカーが最早仕事が出来ないだけで十分とされる。

また2015年の就任時のインタヴューも紹介されていて、そこで本人の口から語られていることは、「ロシアにいた事のない者がウクライナについても語るな」、「伝統と安定を守るためにプーティン大統領同志は偉大なことを為した」、「(メルケル首相の)移民政策で社会不安になり秩序が壊れる」、「(ドイツの友人として言う)全アフリカ人を移したらどうだ」、「ウクライナ問題なんて欧州への移民の波に比較するまでもない小さなこと」と、要するにプーティンとの関係を別にしてもドイツの指揮者ティーレマンのPEGIDAやAfDの主張と変わらない。共通しているのは素朴なネトウヨに働きかけるポピュリズムと差別意識など旧共産圏出身者にも共通している無知である。

そして、自分は音楽を沢山やって来て、政治が間違っていることが分かっているから語れると、まさしくその教えは音楽にあるとしている。ここから分かるように、音楽ジャーナリズムとしてこういう論理を引き出すインタヴューをしなければ多くの鈍感な音楽愛好家にもその演奏家のやっていることが気づかない儘になるということでもある。さもなければジャーナリズムなんて必要がない。そして、政治家が誤ると第三次世界大戦になると言葉を終えている。まさしくこういう芽が早く摘まれるように社会に必要な情報を流すのがジャーナリストの仕事なのである。



参照:
MUSS MÜNCHEN ZAHLEN?, Peter Jungblut, BR-Klassik vom 3.3.2022
"DIE POLITIKER MACHEN FURCHTBARE FEHLER", INTERVIEW VALERY GERGIEV, BR-Klassik vom 17.9.2022
「無力ではないのです」 2022-03-03 | 文化一般
反「不寛容」という主題 2021-06-16 | 文学・思想
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「無力ではないのです」

2022-03-03 | 文化一般
月曜日は4キロをじっくり小一時間かけて歩いた。靴に足は入るのだが、下から突き当たるように、足の疲れが残っていた。金曜日に同じぐらいの距離を走って上っただけだったが、矢張り具合が悪くなっていた。ゆっくり歩くことにしても急斜面を上ると足を十分に使えずにふらふらした。荷物無しでこれであると思いやられる。

結局右足だけで歩こうとするとバランスが崩れて苦しかった。しかし歩いた後は歩く前よりも足が解れた感じでよかった。但し走れるほどには回復していないので、運動不足を解消するためには回数を増やして時間を三倍ほどかけて歩くか、その間の日に走りを入れていくしかないだろう。

今回のウクライナ侵攻に関して、多くの音楽家がコメントを出した。その中で行動とそのコメントが気が利いていて、頭脳明晰さを示した歌手がいた。それはポーランド人のテノール歌手ピオトール・ベチャラのそれであった。

五月にモスクワのユース管弦楽団と共演して歌を披露する予定であったようだが早々にキャンセルして、語っている ― この楽団を先週土曜日に振ったのは前N饗首席指揮者。

「僕の沢山のモスクワのファンがとても楽しみにしてくれてたのは分かっています。でも実際のところ、これが唯一の正しい判断です。」

そして続けた。

「僕は、一人のアーティストで、私の声で以て反戦を表現することが出来るのです。私達はちっとも無力ではありません。」

これにはいたく感動した。とても早く決断した背景には自身の意思を表したいという背景もあったかもしれない。それによって面倒な質問を避けることもできる。そして同時に試してみようとするいかにもポーランド人らしい楽天的なところ見え隠れする。渡り上手でもある。同時にとても考え抜かれた言葉である。

「私の声」は勿論歌声でもあるが其の儘「私見」でもある。それが、今即刻キャンセルすることで、彼が気にしているモスクワのファンに何らかの形で伝わる。「反戦」でなくても「キャンセル」だけでファンの人たちは事情を推察する。それがここでいうアーティストのそして個人としての「表現」である。そして「私達はちっとも無力ではない」と皆に語り掛けている。

共産圏のポーランドで育った人がここまでの発言を出来るのかと不思議に思うのだが、平素話しているような雰囲気とは全く異なるコミュニケーション能力を示している。一流のオペラ歌手であることには疑いはないが、技術的にも甘いところもあってもう一つの印象を受けているのだが、これを読むと見縊っていたのではないかとも思う。

ここに、私達がすべきであって、最早手遅れでしかないかもしれない行いへの手引きがある。


A Scene from Iolanta (Anna Netrebko, Piotr Beczala)




参照:
独裁者を裏切るとなると 2022-03-02 | 歴史・時事
それなりにハナがある 2021-09-22 | 雑感
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