(承前)ムソルグスキー作「ボリスゴドノフ」にロシアの歴史が描かれている。ボリスゴドノフが民衆に祀られ権力を掌握と同時にツァーになる。しかし、その権力によって民衆の希望も叶えることは容易ならず、そこへの道程への過去が炙り返され、主人公の死によって、再び民衆が次なる権力に期待する。ムソルグスキーが描いたのはその各々の心理である。それが明白な形でオペラ作品としては異例な原典版の特徴となっている。
そのような権力構造描写から少なくとも2014年以降の新制作ではプーティン大統領のフィギュア―が舞台に登場することは必ずしも珍しくはなかった。所謂演出による台本の読み替えなるものである。しかし重要なのはムソルグスキーの創作の何を舞台化するかである。それは決してギャグや風刺ではない。その音楽に描かれるところのツァーのみならず民衆迄もにルーペを当てた表現を今日の我々にも体感できる様に舞台化しなければ公演の意味がない。それをまたは極度に抽象化して音楽だけをコンサート形式で聴いても決して体験できないのが音楽劇場の表現である。
シュトッツガルトの劇場では、ムソルグスキーのオペラとしては不完全な原典版を如何にして音楽劇場作品としてのプロジェクトとするかにおいて、セルゲイ・ネヴスキーの新曲をそこに挟みこむことになった。よって、最初から演出家のパウル・ゲオルクディ―トリッヒと依頼された作曲家が話し合い、これまたソヴィエト時代の大衆の記憶を纏めたノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクセイヴィッチの「セカンドハンドの時代」への作曲の挿入個所などが決められた。作曲家はその前後の和声関係にのみ配慮することで創作とした。
つまり、ネヴスキー作曲「セコハンの時代」はそれのみで成立している歌詞のついた独立の作品でもある。この繋がりに関しては、指揮者のティテュス・エンゲルがプログラムにも語っていて、ムソルグスキーの作品を異なる形で指揮するならば演奏解釈が変わると明確に語っていて、恐らくネヴスキーの作品の単独の解釈も変わるだろうとしている。
そして、初日シリーズの映像と比較して、その生の音響との差もあったかもしれないが、ネヴスキーの音楽の冴え方は瞠目すべきものだった。正直映像においてはムソルグスキーの音楽演奏実践を注視していたので、楽譜も何も手元にないネヴスキーに関しては生演奏でとは考えていた。しかし、あそこ迄音色的にも作曲技法的にもそして何よりも内容的につまり感覚的、感情的にもとても理にかなった音響迄は期待していなかった。ポリフォニー化においても、形だけバルコンなどを使ったマトリックス音響ではなくて、とても纏まりつつ多大な効果を上げていた。今回の再演に合わせて作曲家が現地に入って直接関与していただろうことがよく分かった。
ネヴスキー「セコハンの時代」は、そのアレクセイヴィッチの原作自体がとても音楽的だとされるのは、その句読点などの使い方にもあるようだ。ウクライナの旧ハプスブルク領レムベルク郊外の南の街に1948年に生まれたこの女性は、父親がベラルーシ人であったことからミンスクで育ち、新聞社のジャーナリストになる。そこでの仕事の中から生きた声をドキュメントするという事で、モスクワ等でも大成功して二万部が売られた「女たちの顔の無い戦争」にその手法がとられている様である。ペレストロイカの1985年のことで、その後アフガニスタンを描いた1989年の問題作等を通して、2010年には不正選挙のルカシェンコ大統領に公開書簡、 2013年に「セコハンの時代」で自国では出版禁止となる。(続く)
Gespräch mit Swetlana Alexijewitsch, Die Oper "Boris Godunow"
2020年2月の「ボリス」初日に際して、シュトッツガルトでインタヴューにこたえるノーベル文学賞アレクセイヴィッチ。
参照:
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
歴史のポリフォニー今日 2022-02-23 | 文化一般https://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/f819507f38062a2924aeee385410a8f6
そのような権力構造描写から少なくとも2014年以降の新制作ではプーティン大統領のフィギュア―が舞台に登場することは必ずしも珍しくはなかった。所謂演出による台本の読み替えなるものである。しかし重要なのはムソルグスキーの創作の何を舞台化するかである。それは決してギャグや風刺ではない。その音楽に描かれるところのツァーのみならず民衆迄もにルーペを当てた表現を今日の我々にも体感できる様に舞台化しなければ公演の意味がない。それをまたは極度に抽象化して音楽だけをコンサート形式で聴いても決して体験できないのが音楽劇場の表現である。
シュトッツガルトの劇場では、ムソルグスキーのオペラとしては不完全な原典版を如何にして音楽劇場作品としてのプロジェクトとするかにおいて、セルゲイ・ネヴスキーの新曲をそこに挟みこむことになった。よって、最初から演出家のパウル・ゲオルクディ―トリッヒと依頼された作曲家が話し合い、これまたソヴィエト時代の大衆の記憶を纏めたノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクセイヴィッチの「セカンドハンドの時代」への作曲の挿入個所などが決められた。作曲家はその前後の和声関係にのみ配慮することで創作とした。
つまり、ネヴスキー作曲「セコハンの時代」はそれのみで成立している歌詞のついた独立の作品でもある。この繋がりに関しては、指揮者のティテュス・エンゲルがプログラムにも語っていて、ムソルグスキーの作品を異なる形で指揮するならば演奏解釈が変わると明確に語っていて、恐らくネヴスキーの作品の単独の解釈も変わるだろうとしている。
そして、初日シリーズの映像と比較して、その生の音響との差もあったかもしれないが、ネヴスキーの音楽の冴え方は瞠目すべきものだった。正直映像においてはムソルグスキーの音楽演奏実践を注視していたので、楽譜も何も手元にないネヴスキーに関しては生演奏でとは考えていた。しかし、あそこ迄音色的にも作曲技法的にもそして何よりも内容的につまり感覚的、感情的にもとても理にかなった音響迄は期待していなかった。ポリフォニー化においても、形だけバルコンなどを使ったマトリックス音響ではなくて、とても纏まりつつ多大な効果を上げていた。今回の再演に合わせて作曲家が現地に入って直接関与していただろうことがよく分かった。
ネヴスキー「セコハンの時代」は、そのアレクセイヴィッチの原作自体がとても音楽的だとされるのは、その句読点などの使い方にもあるようだ。ウクライナの旧ハプスブルク領レムベルク郊外の南の街に1948年に生まれたこの女性は、父親がベラルーシ人であったことからミンスクで育ち、新聞社のジャーナリストになる。そこでの仕事の中から生きた声をドキュメントするという事で、モスクワ等でも大成功して二万部が売られた「女たちの顔の無い戦争」にその手法がとられている様である。ペレストロイカの1985年のことで、その後アフガニスタンを描いた1989年の問題作等を通して、2010年には不正選挙のルカシェンコ大統領に公開書簡、 2013年に「セコハンの時代」で自国では出版禁止となる。(続く)
Gespräch mit Swetlana Alexijewitsch, Die Oper "Boris Godunow"
2020年2月の「ボリス」初日に際して、シュトッツガルトでインタヴューにこたえるノーベル文学賞アレクセイヴィッチ。
参照:
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
歴史のポリフォニー今日 2022-02-23 | 文化一般https://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/f819507f38062a2924aeee385410a8f6