Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

一堂に会する音楽劇場

2022-05-17 | 
週末のミュンヘン行の準備を検討する。金曜日の午後に用事があるので、燃料もその前に満タンにしておきたい。つまり近所に車で走るのもそれまでに終えておきたい。また燃料費が上がっているようなので、130ユーロ程掛かるかもしれない。エンジンオイルも継ぎ足す。車両を立ち往生させないために出来るだけの事をしておく。そして無理をせずにゆっくりと巡行したい。

そこで気が付いた。当夜は、先日初日の評判がよかったベルリオーズ作「レトロ―ヤン」が大劇場で催されている。それならば早めに行って最初だけ覗いて来ることにした。立ち見のいい席を見つけたので、手数料を入れて17ユーロぐらいの価値はあるだろう。

すると初日当日に放送される指揮者ティテュス・エンゲルへのインタヴュー番組も出かける前に聴けなくなるが、車中で入るか。どうせ録音なのだろうが、当日にオンエアーすれば話題性が高まって、その後の売れ残りの席も売れるというのだろうか。

更に制作に関してまだ十分な情報が出てきていない。出ているのは、作曲家ハースが語ったアメリカのポール・オースタ著「ニュ―ヨーク三部作」と、創作の端となっている冷蔵庫の共振の純オーバートーンにいたたまれず冷蔵庫を持たなかった作曲家イヴァン・ヴュシュネグラツキーのウルトラクロマティックに関してである。作曲者のフリードリッヒ・ハースが、どのように技術を駆使して、それに対峙する土台の上に創作をしているかの説明になっている。
Microtonality and Polyrhythm Crash Course 2021


同時に、今回はクラウス・グートが演出する事から、作曲家、演出家、指揮者が一堂に会して、どのような制作が為されるか、それが音楽劇場の注目点である。こうした説明をして、そしてその音響をして、創作を把握するのは可也の事なのだが、そうした聴衆がまた音楽劇場の欠かせない要素になる。

兎に角、新体制になってから売れ行きが芳しくない。来年のオペルンフェストシュピーレの初日に行われる予定の「ハムレット」をメトからの生中継で聴いた。この作品をそこに持ってくる意味は理解できなかった。なによりも具合が悪いのは、これを音楽監督のユロウスキ-が振ることだ。この中継を聴く限り、ユロウスキーの指揮では荒くなるだけで決して「いい出来」にはならないと予想した。もう少し気の利いた人に振らせた方が良かったのではないか。少なくとも音楽監督が振る作品ではない。この辺りの選曲も音楽監督としての資質に関わる。若干そこに自己保身の姿勢をも感じる。

支配人としては、予算を調整しつつ、新たな聴衆を安く入れることで、餌を撒いたものを刈り取れるような中期的戦略があるのだろう。その為にはやはり大きな話題性も欠かせない。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
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最期に開かれたのか?

2022-05-16 | 文化一般
承前)聖歌で幕を閉じる。今回の演出では、長い机を舞台いっぱいに開いて置いて、その向こう側にばくち場の男たちが座している。それに対して幕開きではその机にヘルマンが一人座る。最後の晩餐を思い浮かべる所だろうか。

既に序奏から運命の動機が影を落としているのだが、そこで歌われるトムスキーのバラーデで全てが予期されることになる。終景において机の上でトムスキーが歌う。このように上手に物語を作っていた。通常は「カルメン」のパロディーの子供の合唱などが挟まれるのでこうした対照は作られないのであろう。

より重要なのは、音楽的に矛盾させない事であって、第一景での影の作り方とか位置配置とかは、今後映像化されて永遠に残されるとなると、改めて細部に関しても批評されるところであろう。やはりオペラ舞台も映像化となると映画化と同じでとても細かなことが指摘される。

全四回の公演での飽くなき修正において ― なんとカメラも入っていない千秋楽にまで舞台演出の手が入っていた ―、 上記点で誰でも気が付くのは、実は最終景での幕の開け方とかでもあった。確か前二回は最終景は聖歌と共に暗転で一息入れてからの拍手であったが、三回目には二重構造になっている上半の幕が引き上げられて、既に亡くなっているリーザの部屋若しくはその戸口で跪いて祈るポーリの姿が見せられた。その是非に関しては改めるとしても、この差異はなによりも映像的に大きな効果の違いを与えたと思われる。直感的にこの修正は、映像プロデューサーの指摘があったからだと感じた。今回は、名プロデューサーのバイヤー氏ではなく、ネール・ミュンヒマイヤー監督となっている。さて出来はどうだろうか、既に165分と編集を終えるているようで、Arte,SWRの制作放送局以外へもオファーが出ている。

さて演出家ペアーは、音楽に添わせることをなによりもの信条としていて、特にキリル・ペトレンコの指揮するチャイコフスキーということで全幅の信頼をそこに寄せていることも口外していた。これは、ペトレンコ自身が「自ら演出することがあればな」と語っていたように、今回の企画の前提になっていただろう。取り分けこの作品は最も大切な作品とまで発言しているのだから、それ以上に尊重されるものはなかったに違いない。

勿論舞台作品とは言いながらもこうした高度な芸術作品であるからには、歌詞其の儘に音楽の表情が一面的に創造されている訳でもなく、上のバラードの様に、様々な状況が音楽的に活かされているとなると、当然の事乍ら芝居的な技術で以て劇を導くとなるのだろう。

強いて言えば、最初の景から終景迄可也の人数が合唱や踊りで舞台上に溢れる作品であったので、その人の波の整理は初日には少なくともスポットライトという意味では十分には決まってはいなかった。こちら側も一回ぐらいでは認知するだけの整理がつかなかったというのもあるのかもしれない。本当にそうだったのか?。(続く



参照:
まるで座付き管弦楽団 2022-04-16 | 文化一般
「スペードの女王」初日批評 2022-04-13 | 文化一般
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次の頂点に再到達の音響

2022-05-15 | 
金曜日の晩、ベルリンからフィルハーモニカーの演奏が生中継された。新シーズンプログラム発表後初めての定期公演だったので支配人ツャッチマンのインタヴューが番組中に流された。

新シーズンのテーマなどについての内容が話された。一つの柱でもある「愛とセクシャルティ」に関しては来年の「影の無い女」やヴェーゼンデュンク歌曲集などが挙げられていて、更に重要な「アイデンティティ」に関して、マーラー七番でシーズンを始める事以外に、楽団のそれについて言及された。

そこで、当夜の客演指揮者で前任のサイモン・ラトル卿と、後任のキリル・ペトレンコ体制の間での変化や特徴について質された。前者に関しては、珍しい曲での開幕とか又教育企画に代表されるパブリックコミュニケーションが総決算として出され、後者によっての現在のフィルハ―モニカーがその音響において明らかに低音がコムパクトに強化されたとが示された。そして当然の事乍ら楽団の見解として、「スペードの女王」でそれが現在までの頂点に達したと、そこ迄のオペラ演奏が可能になったと祝福された。

特にラトル時代のつるつるてんてんの響きが修正されて行く課程において、カラヤン時代の様に肥大化せずに、飽く迄のコムパクトに当てていくバスの殆ど点描的な響かせ方はミュンヘンにおいて最後までも最も違和感さえ与える点であって、ベルリンにおいては伝統的な分厚さとが上手く統合されたとしてもよいのかもしれない。

就任前の「悲愴」から「ドンファン」などにおいてはまだまだカラヤン時代の音響に比較して鳴り切らないとされた批判点であった。それは既にコロナ期間前には修正されていたと思われるのだが、奈落に入るようになってよりコムパクトな響きが要求されたという事だろう。決して奈落でも囂々とはならない乍らも大きな響きを出せる由縁でもあった。

ラトルが体制末期において「カラヤンが昼飯を誘いに来る」と度々漏らしていたのは、まさしくあれだけの音響を支える為にカラヤン化への誘惑に抵抗するしかなかったということだったのだろう。

今回もジェラードというシェーンベルクの弟子の音楽を紹介したラトルであるが、その音響も彼自身の体制の時よりも遥かに豊かになっていたのを客演指揮者として認識したに違いない。これだけマイルドな響きを新たに就任するミュンヘンの放送交響楽団では到底実践できないと認識した筈である。更に新ホールの建設も座礁に乗り上げた。

ペトレンコが、「サイモン、戦後の曲で何を振りたい」と尋ねてくれて、選曲まで任せてくれたと、ベルリンで今迄振った最高の指揮が出来る喜びに満ちた表情で語っているサイモン・ラトル卿である。



参照:
干ばつの毎日の驚愕 2018-08-01 | 音
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
原典回帰というような古典 2016-10-20 | 文化一般
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次の目的地は如何に

2022-05-14 | 雑感
地元でのワイン祭りは今年も中止だった。経済性を重視したのだと思われる。市の広報を見ていなかったので気が付かなかった。時間を掛けて旅行の準備をしたのに無駄になったが、これで旅行経費450ユーロを節約できるようになった。ホテルの予約だけ無料でキャンセルすればよい。これで、今シーズンは、明日の「フェドーラ」は捨てて、来週の「ブルートハウス」、再来週のマーラー七番、その次の週「ルサルカ」で、夏の音楽祭に入る。

「ルサルカ」はドヴォルザーク作曲のオペラで全曲は初めて観る。今回はシュトットガルトでオクサーナ・リニヴ指揮でクラフトという芝居畠の人が演出する。どのようになるかは知らないが、少なくとも大編成では初めてのこの指揮者なので腕を確かめたい。管弦楽演奏会では、問題点も分かったのだが、注目点はオペラ劇場でどの水準まで行くかではなかろうか。

ベルリンの国立劇場の後任支配人が発表された。現ブレゲンツ音楽祭の支配人で、その前はグラーツの支配人、更に以前には同歌劇場のオペラ部門の頭だったらしい。ヴィーン生まれの女性で、先ずは現音楽監督バレンボイムの最期を看取ることになるのだが、注目されるのは後任人事だろう。その一人として名前が挙がるのは音楽的には前任者に最も近いリニヴだろうが、こちらはグラーツで組んでいた女性がドレスデンの次期支配人になることから、そちらの音楽監督と見做されている。しかしまだ表立った動きはない。実力やキャリアーから考えて、現シュトッツガルトの音楽監督マイスターなども間違いなく候補である。

首都ベルリンにある小さな劇場なので、その芸術的な水準以上に体面が大切で、インターナショナルな大物というよりもドイツの顔になるような音楽監督が求められる。よりインターナショナルな顔のベルリナーフィルハーモニカーよりもよりドイツ連邦共和国の意思を体現することになる。その意味からは、マイスターの先ごろのバーデンヴュルテムベルク州議会での挨拶は合格であり、なによりもドイツ人でそこ迄の位置にあるということが大きな評価である。リニヴの場合は今後のウクライナの欧州における立ち位置やまたは指揮者本人と政府との関係に影響されるだろう。

つまり現音楽監督ダニエル・バレンボイムが、イスラエル人でありながら、サイードのプロジェクトに協調していてイスラエル政府批判が出来るユダヤ人であったというのがベルリンの体面を引き上げる形になっていた。勿論フィルハーモニカーのキリル・ペトレンコがとてもリベラルなロシア生まれの初のユダヤ人シェフとなったのもベルリンにとってはとても幸運なことだったのだ。

それにしても新制作「ルサルカ」は殆ど売れていない。理由は分からないが、三月の「ボリス」再演が決して容易な制作でなかったにも拘らずあれだけ売れていたことを改めて認識した。やはりそれだけ評判が良かったという事だろう。



参照:
露文化排除のウクライナ 2022-05-06 | マスメディア批評
感受性に依存する認知 2009-01-03 | 文化一般
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年中行事になる動機づけ

2022-05-13 | 生活
物価高騰でコーヒーも入手が難しくなった。ダルマイヤーのプロドーモも価格が上がり35%引きでも6ユーロに近い。アラビカ豆の供給が追いつかないのか。スーパーなどでウクライナからの植物油が消えたのは分かるのだが、その影響でオリーブ油の安物もなかなか手に入らなくなった。それでも以前は向日葵油を使っていたところをオリーブとなるので、使用料は増えた。コーヒー豆もこうした風が吹けば桶屋が儲かる式にところてん現象なのだろう。

そこで従来通りの4ユーロ以下で濃くのあるコーヒーブレンドで有名なヤコブスのグリーンラベルを購入した。久しぶりである。確かにダルマイヤーの弱いのに比べると濃くがあるのだが、若干薄っぺらい。やはり安いブレンドなのだろう。

窓を一部空けて就寝した。前夜に暑くて熟睡できなかったからである。昼間も、摂氏30度になったので、ショーツとTシャツで過ごした。そして就寝時も長ズボンを脱いだ。気持ちよく清々しかった。未だ上着は半袖だと寒い夜があると思う。そこで折衷案を考えた。下半身は夏のパジャマにして、上半身は冬用の古いのにしておく。寝具を替えるかどうかは後回しである。

今年はワイン街道でのワイン祭りが開かれる。二週間も続くので少なくとも一回の週末は家を空けたい。急いで出かけ先を探す。一つおあつらい向きの催し物を見つけた。交通費だけで100ユーロ程、更に宿泊で180ユーロ程、滞在中四食ほどに入場料などを入れると400ユーロ超えになるだろうか。

催し物がその価値に価するか、滞在中に観光も兼ねて何を出来るか、更に今後そのような旅行の時の参考になるノウハウとなるかなどを検討することになる。コロナ禍も抜けてこの先の事を考えれば、毎年同じ時期に同じようにワイン祭りが開かれることであり、上手くいけば毎年行事の様にもなるのかもしれない。

先ずは試してみるというのも一つである。それで移動時間などを考えるとコリゴリとなるかどうかは分からない。基本的に旅行して出かけてまで催し物にというのは苦手であって、自宅が静かなら出かけないのであるが、二週間続けての喧噪は堪らない。

同じノイズキャンセリングイヤーフォーンをして何かをするならばその時間や移動を有効に使える旅行の方がいいとも思う。仕事で旅行するのは動機づけがあるのでそれ程厭わなかったのだが、兎に角用事がないのに投資までして移動するというのがとっても億劫なのである。嘗ては新しい土地にとかいう好奇心もあったのだが、余程のところでないと最早面倒でしかない。年老いた夫婦などが旅行に明け暮れているが、あの気持ちがまだまだ到底理解できないでいる。



参照:
さて来年はどうなるか 2019-06-18 | 暦
徒労が招いた脱力感 2020-12-10 | マスメディア批評
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持続的多様性のある味

2022-05-12 | 料理
頂上攻撃をこなした。所要タイムをまた縮めた。GPSの関係で距離が短くなっているので平均速度は落ちている。それでも所要タイム以上の計測はない。歩速で182まで上がっているので下りで飛ばせている。実感としても上りで息が上がり切らず、頂上から下りてくるときに上がり168、ラストスパートで172になっているのを見ても、なによりも足の運びがよかったので結果は頷ける。

上りの中間地点にいた自転車のお兄さんに声を掛けられた。頂上までどれぐらい掛かるかとの問いかけだった。20分もあれば十分と答えたが、実は20分で走れれば自己のベストタイムに近づく。既にそこ迄19分ほど掛かっていたので、そのペースでは25分ぐらいは掛かると目論んだ。実際に頂上折り返しは44分を超えていた。それでも一時からすると大分早くなっている。下りに時間を計算して70分を目指せるかどうかだった。

下っていると、先のお兄さんとすれ違った。大分後から追いかけていたようだが、途中で抜かれずによかった。下りで頑張って、70分を四秒ほど超えた。まだまだ自己最高タイムからは15分以上遅いのだが、60分は見えてきた。先ずは足の運びがよくなって蹴りが入るようになったのが嬉しい。外気温も23度超えぐらいだったので、陽射しはもう殆どなかったのだが、汗は十分に掻いた。

ケルンから東へ30キロほどの街リンドラーでチャイコフスキーの交響曲の練習が中止されたとの記事を読んだ。ユース管弦楽団がコロナ前から準備していたプログラムでチャイコフスキーの二番と三番交響曲が演奏される筈だった。所謂「小ロシア」つまり「ウクライナ」という曲である。それを知った街の議会は、地元に避難しているウクライナ人に配慮してプログラムは適当ではないとして、練習の中止を申し入れて決定した。しかしその後に批判が上がり、指導者との協議でチャイコフスキーを演奏する前にウクライナ国歌と曲を演奏して、収益をウクライナ人への寄付とすることにしたと決定を覆した。

勿論最初のロシア音楽演奏の中止は、所謂検閲であって許されないのだが、悪気はなかったともみられる。地方新聞の社説にある様に誤ることはあっても誤りを修正することが大切だと、地方の街でありがちな事件だったようだ。

どちらにしてもそうした芸術文化活動も政治社会と無関係に成立しない。重要なのは論議され得る環境がそこにあるのかどうか、そこにどのような意見が交わされていたかを知ることであろう。

先日パン屋で購入したアップルのものに代わって今回は何も入っていないものを購入した。乾き方なども試してみなければ分からないが、暑い時にも数日間楽しめるぐらいには長持ちして欲しい。



参照:
バタバタしないように 2022-05-11 | 料理
露文化排除のウクライナ 2022-05-06 | マスメディア批評
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バタバタしないように

2022-05-11 | 料理
散髪を済ました。嬉しい。暑くなれである。水曜日は摂氏30度を超えるというので、準備を考える。朝からお茶を沸かして冷やしておく必要はありそうだ。1リットルでは足りないだろう。

甘いものが欠けると不甲斐ない。先週パン屋で購入したベーコンとか玉ネギとか入っているスティックは甘くはないがそれなりに良かった。途中でお茶のところてんゼリーも作ったが、チョコレートもないので飴ぐらいでは直に口が寂しくなる。

本格的に暑くなる前に一発頂上攻撃が可能なのかどうか。散髪して頭は軽くなったが、気温が高い中での体温の上昇に耐えられるか。汗を掻くだけの水分は足りているのか。紅茶に蜂蜜とレモンで補給しておこう。

ミュンヘンで一昨年無観客初日が生中継された新制作「バラの騎士」が初めて観客を入れて、そして大編成で上演された。批評は、十八番になっていた前の演出で二幕の幕が上がると拍手があったが、今回も踏襲しているとあった。そのバリーコスキーの演出自体は抽象化されてよく考えられているだけに、十八番として引き継がれるものになるのだろう。

しかし、音楽監督ユロウスキーは、普通ないほどにブーイングを浴びていたようで、想定よりも悪かったようだ。新聞評でも、直線的に走って滑って仕舞ったようだ。ロンドンでライプチッヒの世界最古の交響楽団ゲヴァントハウスとのツアーでネルソンズ指揮が滑っているのとは若干意味が違う。指揮が違う。ユロウスキーの指揮は生では都合三回観たが、バタバタして仕舞うのはいつものことで、違う面でもう少し聴かせて行かないと苦しい。特に「バラの騎士」は「それ程興味がある作品ではなくて、その特徴をポストモダーンと定義」したところで、そのバタバタ感とごった煮感は煮えついてしまった。昨年はコロナの制限で奈落の中で小編成で演奏をしたので目立たなかった。

ミュンヘンの劇場での音楽監督としての最初の新制作はショスタコーヴィッチ作「鼻」であった。その時のその作品自体がそれで済んだのだが、流石に今回はそれだけでは終わらない。誰が振っても分が悪すぎるのだが、前任者のペトレンコ指揮と比較されることになって、その洗練さが全くなくなっていて、楽団迄ガタガタになっているとされている。大編成の練習不足ならばいいのだがとされても、12月のエンゲル指揮でのストラヴィンスキーやシェーンベルク、バルトーク、コルンゴールトの挿入曲を聴いた感じからすれば、それは通らないだろう。

来月末にはペンデレツキの新制作「ルードンの悪魔」が待たれていて、此の侭ならば雑な演奏になってこうした超一流の歌劇場で演奏される意義すらなくなってしまう。今回の批評を真摯に受け取って、是非修正していって欲しい。



参照:
夢のような倒錯した舞台 2021-03-22 | 音
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
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根源のフェークニュース

2022-05-10 | 文化一般
新制作「スペードの女王」の纏めをしていない。特に演出に関してはほとんど触れなかった。映像化された放送を待っているのもあるが、もう一つ容易に語れない理由がある。通常ならば演出と演奏が十分に合っていなかたっとか、演出以上に演奏が優れていたとか評価できるのだが、今回は一体になっていたことから、先ずその前提を示さないといけない。

演出家が初日前にフェスティヴァルサロンで語った事を思い起こしている。二人のモーシュ・ライザーとパトリース・コリエのおじさん二人組で、元々芝居演出からのチームを組んでいる人たちの様である。モットーとして職人を目指していて、舞台に何かを持ち込むのを諫めていて、最初に歴史的背景から始められてドラマテユルギー上の禁止事項から決まっていくとされる。

今回の英語での鼎談においても、この舞台がなにか社会学的な意味を持つことはなく、プログラムで語る様に物語の話しの切っ掛けは「伯爵夫人がカードの秘密を握っている」とのフェークニュースに源を発しているとしている。

その話に乗ったのが主人公のヘルマンであって、決してインテリでも哲学的でもない男となる。しかしプーシキンの原作ではその衝動に愛がある訳ではないのだが、チャイコフスキー兄弟がマリンスキー劇場の依頼を入れて、つまり児童合唱団を入れ、女帝カタリーナと舞踏会を入れた大規模なショーにしたと説明される。そしてそのヘルマンに作曲家自身が投影された。

そこで、ドラマテュルギーとしての解決方法が、婚約者とリザとの関係を高級娼婦館で売られるとしたことで、なぜ見ず知らずのヘルマンに奔ったのかの背景説明としたという。要するにプーシキンのヘルマンには愛情がなかったのだが、チャイコフスキーの情感による再創造の筋がそれで通るようになる。これに関しては指揮のペトレンコが「上手くいくと思う」としていた今回のプロジェクトの基本構想であったと思われる。指揮者からすれば、音楽的に破綻が起こらない設定が望まれた筈だ。そもそも作曲家は個別にキャラクターを強化していくような創作はしていない。ロマンツェに代表されるような心情吐露がこの作曲家のオペラ創作の本望であるからだ。

ここで分かる様に、原作自体のその舞台が18世紀にあるように、作曲家からすれば五十年ほど前の原作を弟が脚本化したことになる。その中で一世紀前のカタリーナ二世が出てくる。今回の舞台化では、その内容的な検閲も考慮した作曲家の立ち位置である19世紀後半を舞台としてそのサローンを娼婦の館としたのはとてもスタンダードな読み替え舞台化でもあった。

前述したように、フェーク構造はその当時の復古的な絶対主義社会にも当てはまり、チャイコフスキーの作曲におけるネオロココ趣味などを通して専制君主への視座が開かれ更に中世からのロシア聖公会の聖歌への連なる音楽素材として表現されている。(続く



参照:
ラウンジ周辺の雰囲気 2022-04-11 | 文化一般
今後の指針盤となる為 2022-04-22 | マスメディア批評
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創作のカミングアウト

2022-05-09 | 文化一般
フランクフルトでの「フェドーラ」をどうしようか考慮中である。通常価格の三十数ユーロなら捨てていたが、四十数ユーロをアスミク・グリゴーリアンの為に払っている。旅費は往復で35ユーロくらい駐車料を入れると45ユーロ以上である。但し休憩無しの上演にその倍ぐらいの前後の時間が掛かる。勿論代わりの歌手を聴いて得するならと思うが、ミュンヘンにも登場しているが、どうもその価値もなさそうだ。翌朝にチェコの四重奏団のマティネーなどもあるのでそちらに移動しようかとも思うが、これまた要らぬ金がかかる。なによりも生中継で事足りる。

さてもう一つの「ブルートハウス」は、初演の録音をBGMで流してみた。聴いただけでは悪い音の資料ではよく分からないところも多いが、楽譜も見れない。ミニマルな要素に複雑な音響が重ねられていて、やはり生で奈落を覗き込んで初めて分かることも多そうである。但し、曲にモンテヴェルディのマドリガルを挟むのはある程度想像も可能であり、恐らく作曲家とのフィードバックも出来ているのだろう。

ハースの作曲は、この数年間で音楽芸術として最も成功している新作の数々で、この2011年初演作品も代表作となるのかもしれない。ネット情報では、父親のナチでの活動から彼自身もサドマゾの性的志向が強くオーストリアでは認知され難いことから、2013年からアメリカに住んでいるらしい。

しかしハースの音楽からそのような背景を聴いているのはごく少数のファンであり、多くの人はその作風に魅力を感じているに過ぎない。その意味から、この脚本を使ってのオペラは確かに家庭内でのサゾマゾが主題になっている。この作品発表後にカミングアウトしたのだろう。その状況にはそれ程関心がなく、チャイコフスキーのようにそれが学術的にも主題になるのはまだ数十年先のことになるのだろう。それでも、ここで初演から三回目ぐらいの上演に音楽劇場的に作品を扱うということは、どうしてもその作品を客観的に評価していくという芸術的な作業にもなる。それは作曲家との協調作業であっても批判的な創造的作業ともなる。

ここでとても興味深いのは、指揮者エンゲルが演出によって楽曲解釈を変えると口外して止まない作業をしているのとは反対に、指揮者ペトレンコが飽くまでの楽曲の紹介者でしかないとして ― その実演出に応じて指揮するので、演出まで監督する必要が生じて、自ら演出出来たらとまで語っている ―、その「楽曲解釈のあり方」が今までにはなかったとされて、この両者が特に舞台音楽指揮において双璧とされていることである。両者ではなんら共通点もなく、若干エンゲルの方が三つほど若いというだけに過ぎない。

それでも明らかに従来の音楽の「解釈」というのが別の事象として捉えられているのは、この間の創作事情即ち美学的な変化に準拠するものであって、強いて言えばエンゲルのやり方は「開いた作品」への対応、ペトレンコは「閉じた作品」への対応となる。つまり、作品自体が一字一句厳密に構成されているとなれば「解釈」などの余地がないとなり、反対にその状況によって嵌め替えが可能となれば積極的に「解釈」していかなければ意味を成さない。芸術音楽におけるジャンル別けでは、一つはベートーヴェンからシェーンベルクを超えてのセリアルの絶対音楽とされるものとなり、その反対がジョン・ケージとかそこからの偶然性などの作品が対応する。



参照:
プーティン登場の音楽劇場 2022-03-17 | 音
本格的芸術祭への道 2022-04-19 | 文化一般
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ファーストフラッシュ価値

2022-05-08 | 料理
この週末は、来週出かける「フェドーラ」と「ブルートハウス」に手を付けておかないと間に合わない。

前者は、ジョルダーノの作品で所謂ヴェリズモオペラだ。「アンドレアシェニエ」などと並んで、最も馴染みのない分野である。一昨年ベルリーニ「清教徒」室内楽版で初めて経験したように、今回も新たな領域となる。それも話がロシアのスパイものスリラーなので、これまた物語としては色々とヒッチコックなどと繋がるところがある。

正直音楽的にヴェリズモは苦手だったのだが、その劇構成とかに興味を持つようになると、新たな音楽構造が見えてくるのも先建ての「スペードの女王」にも繋がる。そこが掴めないと例えばアルバン・ベルクの器楽作品なども十分に分かっていないことになる。

先ず楽譜を落とすと、音符が始まる前に指揮者向けに舞台の一配置が事細かく図示してある。どこまで実用性があるのかどうかも見ておかないといけない。そこまで拘る作曲家なのか。そんなに音源の位置にも指示があるような複雑な音楽だったか。

そして今見ると、お目当てのアスミク・グリゴーリアンは昨晩出ておらず、来週も下りるようだ。練習風景が残っているストックホルムでのと同じ制作なので殆ど準備無しで参加可能だったはずなのだが、どうもまだ彼女のデビューアルバムのタイトル「不協和音」の状況が続いているとして、世界の協和には程遠いようである。夏のザルツブルク音楽祭には出ると語っているが、そこでのデビュー以前からの付き合いのあるフランクフルトを休むのは余程の事としか思われない。

試しに発注したダージリンが届いた。日本の煎茶並みの価格で100Gしか入っていないにも関わらず10ユーロ近くする。しかし、ラベルや真空パック、入れ替えのジップ付き袋など至れり尽くせりの商品で印象は悪くない。ファーストフラッシュの葉でフェアートレードを謳っていて十分な付加価値もある。

早速ウェッジウッドの茶器で、しかし敢えて紙の使い捨てティーバックに入れて淹れてみた。味は馴染みのダージリンで、今まで知っているものよりも混じりけがなくて、複雑ではないがやはりトワイニングなどのそれとも異なるビオな感じはあった。バックに入れた為か五分経過しても強く苦みが出るという感じではなくて、二杯目も楽しめた。バックをポットの中で上げておけばお湯と非接触になるのが大きいと思う。その意味から今迄の紅茶の印象からするととても洗練された感じになった。

昨年の新茶ということで気にしていたが、賞味期限も2024年前になっているので、その点ではこれで判断を下せる。愉しめて気軽に飲めるファーストフラッシュらしい清涼感もこれの価値でもあろう。



参照:
そこそこ話題になる話 2022-05-07 | 生活
英国の相続遺産 2004-11-15 | 料理
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そこそこ話題になる話

2022-05-07 | 生活
机の廻りに処理すべきものが増えた。何とか今週中に目星をつけて、月末までの時間を有効に使いたい。週明けからは気温が30度近くまで上がりそうだ。早速散髪の予約を取った。天気予報次第でサマーカットに近い迄刈って貰おうと思う。

火曜日の頂上アタックは久しぶりに往復70分が見えてきた。まだまだ上りが遅いが、足の調子がよくなれば再び60分を狙えるようになるかもしれない。GPSの間違いで距離が長く出て時速20km超えの最高速を出しているが、山道ではありえない。しかし所要タイムには間違いがないので、そこそこの速度は出るようになってきた。未だ左足の蹴りに全く力が入らない時があるが、骨の痛みは取れて、下りて来て土踏まずの筋が切れたかと思うように歩けなかったが、使わなかった筋肉が戻って来れば大丈夫だ。

ミュンヘンの新シーズンのプログラムが発表になった。映像は流れなかったが、記者会見を見逃したからか、よく分からない。ざっとした印象と支配人ドルニーのインタヴューなどを総合すると、最初のシーズンのテークオフと異なって、核レパートリー、つまりモーツァルトとヴァ―クナーとリヒャルト・シュトラウスの殿堂としての上演をするという事らしい。その意味からは、前音楽監督が為せなかったモーツァルトをどのように模範的に上演するかが注目される。ヴァ―クナーはそのあとに「ローエングリン」を上演するようだが指揮者がフランス人のロートで、これは先ず支配人がベルギー人でなければありえなかっただろう。配役も取り立てて面白味もなく、演出もハムブルクで既に示したように、最初から失敗しそうな制作だ。

注目されるのは、同時期にエンゲルがクリスマスシーズンお決まりの「ヘンゼルとグレーテル」を再演指揮するが、こちらも子供向け演出から何処迄音楽劇場的な成果を示せるのかよく分からない。エンゲルが既に評判になった「ローエングリン」を振った方が成功は堅かっただろう ― もしかするとバイロイト迄計算済か。但し年明けてから再びこちらも飛び入り新制作だった「ジュディッタ」を指揮するので、こちらは益々その制作の評価が高まりそうで、ブルーレイ発売開始のいい切っ掛けとなる。但し個人的な訪問に関しては未定で、シュトッツガルトでの新シーズン計画を待つしかない。

まあ音楽監督はプロコフィエフの「戦争と平和」を振るので、これはそこそこの話題になる筈だ。ドラマテュルギーもクラスティングがやっているので出かけてもいいか。その前提としても先ずは来月のペンデレツスキー作「ルードンの悪魔」の大成功が待たれるところである。新しい「ハムレット」はグライボーン音楽祭で上演しているようなのでそちらの批評を読めば評価可能となる。

その他では、アスミク・グリゴーリアンが「ルサルカ」ででびゅーする。こちらは指揮者もロンドンと同じで、来月の為にお勉強すれば価値のあるなしを評価できる。全体的には、歌手の魅力なども若干薄く、やはり音楽監督ユロウスキーが成功するかどうかに係っているような気がする。



参照:
将来を決するヤーマイ 2022-03-22 | 文化一般
インターバルトレーニング 2022-03-05 | 生活
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露文化排除のウクライナ

2022-05-06 | マスメディア批評
六月から始まるシュトッツガルト歌劇場で新制作「ルサルカ」公演が始める。指揮をウクライナのオクサーナ・リニヴが受け持つので出かけることにした。その練習もあって隣の街のルートヴィッヒスブルクの音楽祭初日を木曜日に振る。昨年も登場したが無観客演奏会であった。そしてフランクフルタ―アルゲマイネ新聞がインタヴューをしている。

その内容は、比較的情報を追いかけていても、それでもビックリするような内容が盛り沢山だった。なによりも4月の自ら音楽監督を務めるボローニャでの新制作「イオランタ」の指揮から下りた、その真相が語られている。

オフィシャルの心労など病気による降板であることは間違いなかったが、決定的なのは即刻発効したウクライナ政府によるロシア文化禁止令が指揮を不可能にしたという事だった。それもポーランド政府のお達しを切っ掛けに、ウクライナでも無期限立法となった様である。この事は、先日のキーフ交響楽団で演奏した音楽家からは明白にされていなかった。つまり在独ウクライナ大使が語る様に「爆弾で子供までが吹き飛ばされている状況でのロシア文化プロパガンダはあり得ない」ので心情的に理解できるというのを超えている。

それを明白にするようにEU内でそうした文化的なボイコットを規制するガイドラインなどが必要であり、たとえウクライナ国籍等の者でもEU内での活動を保障するものがあればよいとする要望が出された。先ずはポーランド政府が罰せられないといけないのだが、EUは現行の政府が朽ちるのを待つしかないという立場をとり続けている。

更に大使が全ロシア人は当面敵であるとしたことに関連して、指揮者のペトレンコなどを挙げて、「良いロシア人」と敢えて答えている。恐らく取り巻く状況を明らかにするための発言だと思われるが、まさしくバーデンバーデンでの復活祭において、ロシア音楽特集をし乍らウクライナ支援のガラコンサートを行って、同時にペトレンコが指揮から下りた背景がこれで明らかになった。

そしてルートヴィッヒスブルク音楽祭初日には本来は「悲愴」交響曲とそれに合わせて初演される筈だったウクライナ作曲家の新曲取り下げられた。そしてマーラーとモーツァルトのプログラムに取り替えられた。即ちリニヴもロシア音楽を無期限で指揮出来なくなっている。もし「ルサルカ」がロシア音楽であったなら、我々は新たな運動を起こす必要があったのだろう。

改めて明らかになったのは、ウクライナは我々が介入するような国ではない事、そしてEUやNATO加入などは到底あり得なかったという事である。軍事行動などが始まると、平素は浮き彫りにならないグロテスクが社会に顕著となり、西欧でも九十年前にはあったような野蛮が支配するようになる。

彼女の設立したユース管弦楽団の18歳以上の団員は、ウクライナの国防省の許可がないと国外には出られない。西部リヴィヴやオデッサには彼女の親族が住んでいる。



参照:
„Jetzt gerate ich zwischen die Räder“, JAN BRACHMANN, FAZ vom 4.5.2022
ウクライナ救済をうたう 2022-04-15 | 文化一般
独大統領の不可解な演奏会 2022-03-28 | 文化一般
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興奮の復活祭の追憶

2022-05-05 | 雑感
14時からベルリンでのシーズンプログラム紹介があった。生中継を観ていた。先ずはキリル・ペトレンコが興奮した面持ちで、帰って来たばかりのラトヴィアでのオイロ―パコンツェルトの話しをして、更に復活祭での「スペードの女王」を回想して、「信じられないほどの経験」だったとして、とても上手くやったと自負していると、そして願わくば今後もそこで継続的にやっていくのが楽しみだと語った。我々としても漸くこれで報われたという気持ちである。

そして、来年の復活祭においては、最も複合的な大作「影の無い女」なので、フィルハーモニカーに自分の音楽を更に伝えれるかと楽しみにしているとした。

核レパートリーとしてマーラーの交響曲七番は、とても難しく特に終楽章を上手くやらなければいけないといけないので、あまり演奏されていないと、そしてショスタコーヴィッチの10番交響曲と共に今日と同様とても難しい時期に教えられる作品だとしている。モーツァルトを含めて、米国ツアーにも持っていかれる。

そこで演奏されるコルンゴールトの交響曲はベルリンのフィルハーモニカーでの初演。映画音楽作曲家と烙印を押されているが、ミュンヘンで指揮したように重要な作曲家であり大きな作品なので名誉だと語っている。

9月のベルリンのフェストシュピーレではダルラピッコラのオペラもコンサート形式で振る。一日空けて、同じフィルハーモニーでティテュス・エンゲルが同じ枠組みでドイッツェオパーのジャズバンドで楽日を振るので、どうしようかと考えている。

2月にもビエンナーレとして百周年のリゲティなどの曲が集中して演奏される。つまり2025年には可也面白いことになりそうだ。新曲初演でミュンヘンで「サウスポール」を初演した作曲家スルンカの新曲「スーパーオーガナイズムス」が演奏される。

驚いたのは、上海公演の話しが出なかったことで、その場にいたら質問しなければいけなかった。その反面、極東旅行が減ったのでデジタルコンサートホールによるプレゼンスは重要だとしていた。

定期会員は3%の減少と最小に収めていて、占有率も6%の88%の大ホールは満足な数字とした。

大晦日のジルフェスタ―コンツェルトには、カウフマンが登場。指揮者は違うがミュンヘンでお馴染みのテノールのフォークトは野外コンサートでベルリナーフィルハーモニカーにデビューする。



参照:
チャイコフスキーの音楽構造 2022-04-23 | マスメディア批評
西風に乗ってくる琥珀 2022-05-02 | 歴史・時事
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緑の風に誘われて試す

2022-05-04 | 試飲百景
ワインの試飲会を二件申し込んだ。双方とも今までは連絡無しに突然出かけて試飲してきた醸造所である。しかし流石に一件は中庭で着席で行うというので、予約無しでは難しく、もう一件も人数が集まって賑わう醸造所なので連絡を入れておいた。両方ともまだ何とかなるだろうが、連絡を待つ。

その週末の間にはバーデンバーデンの祝祭劇場に行って、SWR交響楽団演奏でマーラーの七番交響曲を聴く。前の週にミュンヘンで「ブルートハウス」初日があって、その前の週はフランクフルトでオペラである。つまり最初の週を除くと毎週音楽会若しくはオペラがあって、6月第一週も入る予定だ。その他にも幾つかあるのだが出かけている時間も余裕もない。

そろそろ、フランクフルトの「フェドーラ」とハースのオペラだけはお勉強しておかないと間に合わない。マーラーは先ずは小手調べになる。私のような凡人にとってはやはり重荷でアップアップになりそうだ。

そこにワインの話しが入ってくる。2021年度の生育状態などの情報に目を通すと、リースリングとしては熟成度も高い反面健康な果実の摘み取りも可能だった様で酸は可也良さそうだ。

金曜日に中一日で走ると、全く左足で蹴れなかった。頂上攻撃の疲れが出ていて力が入らなかったのだろう。上体を無理にゆすって足を進めた。それでも上りも早めで下りに10分ほどしか掛かっていなかった。しかしなぜか足を怪我する前の一時期から比べても大分早くなっている。恐らく暖かくなって裸で走れるようになったのが大きいのだろう。同時に気温が低めで暑さを感じずに走れたからだろうか。

BGMにLPを流した。面倒なのであまりそういう無駄なことはしないのだが、二三回に分けて四枚組を流してしまった。ヘルベルト・フォンカラヤン指揮ブルックナー交響曲八番である。ベルリンのフィルハーモニカーを指揮して新旧二種のLPを所持しているのだが、旧盤が今後も残ると確信した。新盤は当時の最新録音で新フィルハーモニーで録音されたのでその録音技術とも重要な録音だと思っていた。しかし、旧盤の教会での不完全な録音乍、その演奏の美質に気が付くと、その比較にならない中声での表現力などを聴くと最早比較にならない録音だと分かった。

なるほど技術的には現在のフィルハーモニカーとは比較にならないのだが、その音楽的なアンサムブルと響きは秀逸で、この指揮者がトスカラヤンと呼ばれたトスカニーニ指揮に魅了されていた時代から同じEMI録音でヴァルター・レッグのプロデュースでロンドンで録音されたそれらを髣髴させると同時に、昔のフィルハーモニカーのドイツ的な音楽の歌い口にも溢れていて魅了される。これならばフルトヴェングラ―指揮の圧倒的な音楽にも対照化されるだけの人気に徐々になってきていたのも頷ける。



参照:
敵失で決定のカラヤン 2021-01-11 | 音
将来を決するヤーマイ 2022-03-22 | 文化一般
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マイオーケストラとの日々

2022-05-03 | 
ベルリナーフィルハーモニカーの券を八枚購入した。もしかすると更に購入することになるかもしれない。嘗ては一番多く聴いた管弦楽団はヴィーナーフィルハーモニカーだったのだが、つまりマイオーケストラだったのが、2013年以降ベルリナーに徐々にその位置を受け渡し、今は圧倒的に超えたと思う。年間二桁は間違いなく聴くので十年で百晩を超える事になる。その前提は復活祭フェストシュピーレとなる。要するに管弦楽団演奏に関してはベルリナーが基準演奏になるので、それを技術音楽的に超えるとなるとそれ以外では指折りの管弦楽団しか対象にはならない。

そもそももう時代遅れと考えていた大管弦楽団の演奏会は十代の時以降はあまり行かないようにしていたので、自ら驚くべき状況になった。全ては天才指揮者キリル・ペトレンコと共にあって、そういう時代を築く芸術家が出没しなければ新時代の大管弦楽演奏は存在しなかったのだ。

更にそこにオペラ上演の可能性を今回の復活祭で示してくれたものだから、音楽劇場の第一人者のテュテュス・エンゲル共々その可能性を広げてくれることにもなった。新時代である。

そこで具体的に、来年の復活祭の未発表の室内楽とハーディング指揮の二日目以外は全て購入した。合わせて333ユーロだったが、今年から定期割引があって、五回、七回、九回纏めて購入すると5,10,15%の割引となる。だからといってアップグレードの意味はなかった。だから七枚購入して300ユーロしなかった。オペラ新制作「影の無い女」三回、同じくペトレンコ指揮演奏会3回、そしてバロックオラトリオ一回でこの価格は安い、そしていい音響で楽しめる。来年は席移動できないほど入って欲しいと思う、そして自分の席で全部を観聴きしたい。

安いのであるが、本年の交通費や駐車料やお茶代を入れるとそれだけで300ユーロを越えるので合わせるとやはり600ユーロ程の出費となる。ある程度の価格で一二度出かけるのとあまり変わらないだろう。

割引で通う人が増えるのを期待すると同時に学生割引とU26割引のセニュール割引などがあって、熱心な聴衆が増えて欲しい。

そして、今秋の就任お披露目米国ツアーの前のフランクフルトでの壮行演奏会も購入した。こちらは夏のルツェルン音楽祭と同じプログラムでマーラーの七番交響曲なので遠い安い席を購入した。そこでマンドリンなどの特殊な編成がどのように響くかなども聴きどころだ。いい席があればと思ったが、定期会員に配られていて、2020年の定期外れの時のバルコン最前席などはなく、投資する価値は殆どなかった。そして私の隣の席も直ぐに売れた。こうした熱心な通や玄人の聴き手が集うのがなんとも嬉しい。嘗てバロック演奏会などに通い続けた知り尽くした席に近いので、十分な音響が届かなければ不合格なのである。こちらも39ユーロ程で視覚的に遠いのが難であるがまあまあだろう。

また上海ツアーがなくなって、その代わりの小ツアーが入る可能性があるのだが、その計画等が遅くとも水曜日のべルリンでの記者会見までには分かるだろう。



参照:
西風に乗ってくる琥珀 2022-05-02 | 歴史・時事
多くの人が気にすること 2022-04-28 | 生活

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