紅露の写真日誌…北の大地・夢空間

小樽・札幌の風景、イベントが中心

イヌの散歩道~水天宮編

2013-04-18 06:00:00 | 街中ウォッチング
毎朝犬を連れて30分ほど自宅周辺を散歩するのが日課になっています。私の大反対を押し切って、我が家にイヌがやって来たのが平成17年ころ。メタボ防止だ、健康にいいという家内の甘言に騙されて、もう8年近くもイヌの散歩に付き合っています。最初の内は自宅から北運河近くまで片道2km弱を往復していましたが、さすがに小型犬のパピヨンにはきつい散歩だったようで、家に戻るとバタンキュー。とろとろ歩きではメタボ解消にほど遠く、いつしか距離が短縮、メルヘン交差点、入船ガード下、双葉高校横、JR南樽駅、自宅というコース(JR南樽駅コース「2013.1.24イヌの散歩道」)になってしまいました。距離にして1km弱を30分ほどかけて、回っています。

4月も中旬となると、雪解けも進み春らしくなってきました。道の片隅にはクロッカスが咲き始め、水仙のつぼみも日に日に膨らんでいます。気持ちの良い気候に誘われて、普段とは違うコースに行ってみることにします。雪が降る前には時々イヌの散歩に行っていた水天宮コースです。冬期間は道路が雪に埋もれとても登ることが出来ません。雪が解けたので登れそうだということで向かってみました。


自宅を出ると、ところどころ残雪の山。


メルヘン広場の交差点を渡ります。中国人の団体がオルゴール工房に向かうようです。


メルヘン広場の「銀の鐘」の店員さんにじゃれついてしまいました。家にもいるんですよ…としばし歓談。


堺町郵便局の横小路、銀の鐘の流氷館の前を通ります。


今は閉校となったデザイン専門学校の横を回ると、目の前に水天宮の急坂が現れます。写真にすると勾配がわかりませんが結構きつい坂なんです。

この坂は途中からあまりにも急なために階段状になっていて、車が通りぬけることが出来ません。冬期間は、市の除排雪が入らず、坂の両端の住民による除雪に頼っています。景観は海が見えていいのですが、住環境としては、とてもお年寄りに優しいとはいえません。そういうこともあってか、坂の途中には廃屋があちこちに見られます。


坂の途中にクロッカスが咲いていました。


駐車場の一角にフキノトウが顔を出していました。なお、道産子には、フキノトウを食べる習慣がありません。内地では珍味も、ここではただの野草。


アジサイがドライフラワーになっています。この画像の右手も空地。


坂の途中の廃屋。数年間このまま放置されています。


この辺りはまだ車で登れます。手前の屋根に飾り(雪止め)のある建物の「破風」を見てください。奥の2F建は別棟です。手間の家には1棟で3つの破風がありますが、最奥の破風(玄関)はべニアでふさがれています。何か不思議な感じがして撮ってみました。


坂の半分近く来たでしょうか、右手に見える建物2棟空き家です。この辺りの斜度は30度ほどあります。左側の石垣の敷地もほとんど平地で荒れ放題です。


空き家になって10年ほどでしょうか、周囲の樹木が伸び放題。


石段の隙間からフキノトウが顔を出しています。

途中何度も休憩を取りながらやっと石段を登り切りました。なお、水天宮は標高53mほどあります。水天宮に至る道路は大きく分けて三つあります(2010年9月22日付「小樽は坂の街」参照)。一つは今登って来た道で(相生町の坂)、メルヘン広場や入舟町の道路に通じる道です。もう一つは境内から海側に降りる外人坂です。この坂は相生町の坂よりも、さらに急坂で斜度40度近いのではないでしょうか。夏場でも上から見ると、転げ落ちそうで怖くなります。もちろん冬場は足跡さえ見られません。

もう一つの路は花園町からくる道ですが、鳥居をくぐると30段ほどの石段となっています。となると水天宮には車で来ることはできないのか、という疑問がわきますが、ご心配無用。細いながらも道があります。ひとつは、旧堺町小学校前、旧板谷邸前から観光街の堺町通りに出る道(ただし冬期間は通行止め)。もう一つは堺町小学校近くから山田町に抜ける道です。いずれにしても、この水天宮というのは交通の不便なところに立地しています。話がずれましたが…


やっと境内に着きました。


境内の芝生の部分にはまだまだ雪が残っています。


境内から外人坂を見ると雪がかなり残っていて、降りられそうもありません。


この境内は港の眺めがとてもよく、小樽市指定の眺望展望台となっています。新潟行きのフェリーが午前10時半の出港を待っています。


また雪に埋もれた境内の片隅には石川啄木が、小樽を歌った碑がたっています。「悲しきは 小樽の町よ 歌うことなき人々の 声の荒さよ」小樽は貿易で栄えた町で、啄木が小樽の新聞記者をしていた時代は、はしけの沖中師たちが活躍していた時代です。自然大声を張り上げあららしい言葉が飛び交っていたと思います。繊細な啄木にはなじめない言葉だったのかもしれません。

(注) 石川啄木は明治40年9月来樽、小樽日報社に勤務、後の童謡詩人・野口雨情とともに記事を執筆するも上司と対立。2か月余で退社。釧路新聞社に勤務するも、ここでも上司と対立して3か月余で退社。その後函館でも長続きせず東京に向かう。(Wikipediaによる)


本文中のカラー写真は、4月12日撮影、CASIO EXILIM Z3000による。モノクロ画像は、4月14日撮影、LUMIX DMC TZ30による。
コメント (6)
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