撮影監督が斉藤幸一さんだったのが嬉しかった。彼は瀬々敬久監督の最高傑作『雷魚』を撮った名手である。奇跡のように美しく悲しい風景がそこにはあった。今回も従来のパニック大作映画のカメラとはまるで違った映像を見せてくれる。
昔、ある小さな雑誌のインタビューで瀬々敬久監督にお会いしたことがある。監督のお宅に伺い1日を過ごした。とてもすばらしい1日だった。その日、大阪から東京まで行った僕らを、監督はわざわざ自宅に招いてくださり、3時間にも及ぶインタビューに誠実に答えてくださった。それだけでも凄いことなのに、その後食事をご馳走になり、当然のように宴会になり、しこたま酒を飲んだ。なんだか友だちの家に行って、遊んできた感じで。そんなふうに迎えていただき歓待していただいたことに感動した。『雷魚』のカメラワークのすばらしさを何度も語る僕たちのために瀬々さんは斉藤さんを呼んでくださった。斉藤さんは近所からすぎに駆けつけてきた。
すべては『雷魚』である。あの映画に感動して、あんな凄い映画はない、と振れまわった。その感動がそのインタビューにつながる。瀬々敬久監督の今回の映画が成功したのも誰にでも優しい彼のそんな人柄が映画に滲み出ていたからだ。この映画の中に登場する様々な人たち、そのすべての人を大事に描く。大作映画が陥りがちな空疎さからは程遠い地に足の着いた映画になっているのがいい。
この『感染列島』は瀬々敬久監督がTBS製作の大作映画に挑んだ最新作だ。マイナー映画を撮り続ける彼がなぜこんな大作をオファーされたのか不思議だ。最初チラシの中の監督名のところに瀬々さんの名を見つけたときには驚いた。だいたいこの映画に関してはいつものTV会社が作る空疎なパニック大作であろうとしか思いもしなかった。なんの興味もなかった。だが、瀬々監督作品と知ってから俄然興味が湧いた。彼が一体この素材をどう料理するのか。つまらない映画にはなるまいとは思うのだが、TV局の思惑に絡み取られて彼らしさの全くない映画になっていたらどうしようとか、心配と期待に胸躍らせて劇場に行った。
瀬々さんは見事にこれだけの大作を自分のものとしてドライブしていた。しかもパートナーとして斉藤さんを選んだ。2人はピンク映画の頃からの名コンビだ。あてがわれた大作になれた撮影監督とではなく気心の知れた仲間とこの大作に挑む。その姿勢が好きだ。そして斉藤さんならではの視点と、見事な映像で映画は仕上がった。この映画は凡百のTV局主導のTVサイズの映画とはまるで違う。
それにしてもよくぞこんなにも重くきつい映画を作ったものだ。ありえないことである。しかも題材が難しい。パニック大作映画というパッケージングだが、ウイルスの感染なんてことをどう視覚的に見せるのか、困難を極める。しかも超拡大公開の娯楽大作に仕立てなくてはならない。わかりやすくて感動的で、みんなを満足させる映画にしなくてはならない。
妻夫木聡がとてもいい。この映画が成功したのは彼が一人の人間としてこの世界の中に存在したからだ。医者としてそこにいて、患者を救いたいと願う。ただそれだけのことが彼を動かす。スーパーヒーローなんかではない。ただの一介の医者でしかない。この未曾有の感染パニックの現場に居合わせたがために巻き込まれ、だが自分の責任を全うするために全力で戦う。映画は東京のとある周辺都市の総合病院を舞台にして、最初の患者がここから出たことからこの街が封鎖されパニックとなる様が描かれる。基本的に病院の院内でドラマが展開する。従来のパニックものとは一線を異にする。
「日本全土を覆う感染の恐怖」なんていうことをどう描くか。正直言ってアプローチは難しい。それを瀬々監督は局地的な描写で見せる。これはかなり思い切った選択だ。だがそれが功を奏している。風呂敷の広げ方が上手い。国家規模の大災害を局地的に描くことで納得のいく映画に仕立てるなんて並の作家では出来ない。彼は等身大の映画としてこれを作る。気張ったものにはしない。いつもの瀬々敬久監督作品と同じように自分目線を大事にする。もちろんこれだけの大作である。制約も多い。だが、中途半端な妥協はしない。譲れない一線は守る。日本全土を覆うパニックをきちんとひとりひとりのここに生きる人たちのドラマとして見せるのだ。
昔、ある小さな雑誌のインタビューで瀬々敬久監督にお会いしたことがある。監督のお宅に伺い1日を過ごした。とてもすばらしい1日だった。その日、大阪から東京まで行った僕らを、監督はわざわざ自宅に招いてくださり、3時間にも及ぶインタビューに誠実に答えてくださった。それだけでも凄いことなのに、その後食事をご馳走になり、当然のように宴会になり、しこたま酒を飲んだ。なんだか友だちの家に行って、遊んできた感じで。そんなふうに迎えていただき歓待していただいたことに感動した。『雷魚』のカメラワークのすばらしさを何度も語る僕たちのために瀬々さんは斉藤さんを呼んでくださった。斉藤さんは近所からすぎに駆けつけてきた。
すべては『雷魚』である。あの映画に感動して、あんな凄い映画はない、と振れまわった。その感動がそのインタビューにつながる。瀬々敬久監督の今回の映画が成功したのも誰にでも優しい彼のそんな人柄が映画に滲み出ていたからだ。この映画の中に登場する様々な人たち、そのすべての人を大事に描く。大作映画が陥りがちな空疎さからは程遠い地に足の着いた映画になっているのがいい。
この『感染列島』は瀬々敬久監督がTBS製作の大作映画に挑んだ最新作だ。マイナー映画を撮り続ける彼がなぜこんな大作をオファーされたのか不思議だ。最初チラシの中の監督名のところに瀬々さんの名を見つけたときには驚いた。だいたいこの映画に関してはいつものTV会社が作る空疎なパニック大作であろうとしか思いもしなかった。なんの興味もなかった。だが、瀬々監督作品と知ってから俄然興味が湧いた。彼が一体この素材をどう料理するのか。つまらない映画にはなるまいとは思うのだが、TV局の思惑に絡み取られて彼らしさの全くない映画になっていたらどうしようとか、心配と期待に胸躍らせて劇場に行った。
瀬々さんは見事にこれだけの大作を自分のものとしてドライブしていた。しかもパートナーとして斉藤さんを選んだ。2人はピンク映画の頃からの名コンビだ。あてがわれた大作になれた撮影監督とではなく気心の知れた仲間とこの大作に挑む。その姿勢が好きだ。そして斉藤さんならではの視点と、見事な映像で映画は仕上がった。この映画は凡百のTV局主導のTVサイズの映画とはまるで違う。
それにしてもよくぞこんなにも重くきつい映画を作ったものだ。ありえないことである。しかも題材が難しい。パニック大作映画というパッケージングだが、ウイルスの感染なんてことをどう視覚的に見せるのか、困難を極める。しかも超拡大公開の娯楽大作に仕立てなくてはならない。わかりやすくて感動的で、みんなを満足させる映画にしなくてはならない。
妻夫木聡がとてもいい。この映画が成功したのは彼が一人の人間としてこの世界の中に存在したからだ。医者としてそこにいて、患者を救いたいと願う。ただそれだけのことが彼を動かす。スーパーヒーローなんかではない。ただの一介の医者でしかない。この未曾有の感染パニックの現場に居合わせたがために巻き込まれ、だが自分の責任を全うするために全力で戦う。映画は東京のとある周辺都市の総合病院を舞台にして、最初の患者がここから出たことからこの街が封鎖されパニックとなる様が描かれる。基本的に病院の院内でドラマが展開する。従来のパニックものとは一線を異にする。
「日本全土を覆う感染の恐怖」なんていうことをどう描くか。正直言ってアプローチは難しい。それを瀬々監督は局地的な描写で見せる。これはかなり思い切った選択だ。だがそれが功を奏している。風呂敷の広げ方が上手い。国家規模の大災害を局地的に描くことで納得のいく映画に仕立てるなんて並の作家では出来ない。彼は等身大の映画としてこれを作る。気張ったものにはしない。いつもの瀬々敬久監督作品と同じように自分目線を大事にする。もちろんこれだけの大作である。制約も多い。だが、中途半端な妥協はしない。譲れない一線は守る。日本全土を覆うパニックをきちんとひとりひとりのここに生きる人たちのドラマとして見せるのだ。