友だちの付き添いで、演劇部を覗いた。そのまま成り行きで入部してしまった。別にお芝居が好きだったわけではない。でも、気がつくと一生懸命になっていた。3年が引退して、これも成り行きで、部長になってしまった。台本なんて書いたこともない。演出なんてしたこともない。でも、みんなを引っ張って、コンクールを目指すことになった。今まで地区大会を勝ち残ることさえ出来なかったのに、新しくやってきた先生に乗せられて、全国を目指すことになった。
これは特別な子たちのお話ではない。どこにでもいるふつうの女の子たちのお話だ。高校初めで部活を始め、世界はとんでもなく広いということを知る。とてつもなく大きな夢を持ち、そこにむけて努力する。不可能だと、最初から諦めるのは簡単だ。努力したからといって成功する保証はない。というか、ほとんどムリ。でも、夢を見ることは大事。高校生の特権だ。
演劇において、「目指せ、全国大会!」というのは決して無謀ではない。だが、トップレベルと初心者の間にある溝は深い。それはスポーツと変わりない。ただ、発想と才能が合致した時、奇跡は起きるかもしれない。この映画は決して絵空事として彼女たちの活動を描くのではない。
、この小説は出た時にすぐに読んでいる。平田オリザ初の小説が、こういう子供向けの作品だったことに、まず驚いた。だが、これはウォーミングアップのために書いた軽いもの、というわけではない。そんな舐めたことはしない。平田さんは自分が見てきた高校演劇の世界を、たくさんの人たちにも知ってもらいたくて、これを書いた。だからジュニア小説としてこれを書いた。
でも、それは大人たちにもしっかり伝わる。彼なら青年団の芝居でやっているようなことを小説の世界でも十分表現できる。彼にとって純文学で勝負するのなんて容易なことだ。しかし、そんなことはしない。彼には無用だ。彼にとってそれは演劇という表現で勝負するためのもので、小説は小説家が書けばいい。自分の武器は演劇で、それで世界と戦っている。器用な便利屋ではない。
今回も彼は敢えて脚本にはタッチしない。『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平に任せている。これは平田オリザの演劇メソッドを映画として表現するための作品なんかじゃないことは周知に事実だ。だが、この映画に於ける演劇パート(演劇部としての部分を含む)に関してはしっかり手を入れた。そこに嘘があってはならないからだ。これをリアリティにない映画には絶対しない。
本広克行監督はこれを演劇についての青春映画として立ち上げた。それが普遍的な青春映画へと通じる。それは平田オリザさんとのコラボも含めて見事成功している。ももクロの5人も「アイドル映画」としてこの作品に参加して、しっかりと輝いて見せる。彼女たちはまず本物のアイドルだからだ。
だが、映画の中で彼女たちはどこにでもいるふつうの高校生でしかないのに、いや、それだからこそ、まばゆいばかりに輝いている。凄いことだ。だからこそ、彼女たちはこの映画のヒロインなのだ。そして、この映画を見た子供たちも彼女たちのように生きることで、同じように輝くことが出来る。
全力で今の自分たちの力を出し切る。その先にはきっと未来がある。それが成功なのか、失敗なのかは関係ない。ラスト、幕が上がった瞬間に映画のタイトルが出る。さあ、ここから始まる、という作者の願いがストレートに伝わってくる。
舞台の袖でキューを出す部長(百田夏菜子)の姿が胸に焼き付いて離れない。百田のその顔がこの映画のすべてだ。この瞬間のためにすべてがある。
これは特別な子たちのお話ではない。どこにでもいるふつうの女の子たちのお話だ。高校初めで部活を始め、世界はとんでもなく広いということを知る。とてつもなく大きな夢を持ち、そこにむけて努力する。不可能だと、最初から諦めるのは簡単だ。努力したからといって成功する保証はない。というか、ほとんどムリ。でも、夢を見ることは大事。高校生の特権だ。
演劇において、「目指せ、全国大会!」というのは決して無謀ではない。だが、トップレベルと初心者の間にある溝は深い。それはスポーツと変わりない。ただ、発想と才能が合致した時、奇跡は起きるかもしれない。この映画は決して絵空事として彼女たちの活動を描くのではない。
、この小説は出た時にすぐに読んでいる。平田オリザ初の小説が、こういう子供向けの作品だったことに、まず驚いた。だが、これはウォーミングアップのために書いた軽いもの、というわけではない。そんな舐めたことはしない。平田さんは自分が見てきた高校演劇の世界を、たくさんの人たちにも知ってもらいたくて、これを書いた。だからジュニア小説としてこれを書いた。
でも、それは大人たちにもしっかり伝わる。彼なら青年団の芝居でやっているようなことを小説の世界でも十分表現できる。彼にとって純文学で勝負するのなんて容易なことだ。しかし、そんなことはしない。彼には無用だ。彼にとってそれは演劇という表現で勝負するためのもので、小説は小説家が書けばいい。自分の武器は演劇で、それで世界と戦っている。器用な便利屋ではない。
今回も彼は敢えて脚本にはタッチしない。『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平に任せている。これは平田オリザの演劇メソッドを映画として表現するための作品なんかじゃないことは周知に事実だ。だが、この映画に於ける演劇パート(演劇部としての部分を含む)に関してはしっかり手を入れた。そこに嘘があってはならないからだ。これをリアリティにない映画には絶対しない。
本広克行監督はこれを演劇についての青春映画として立ち上げた。それが普遍的な青春映画へと通じる。それは平田オリザさんとのコラボも含めて見事成功している。ももクロの5人も「アイドル映画」としてこの作品に参加して、しっかりと輝いて見せる。彼女たちはまず本物のアイドルだからだ。
だが、映画の中で彼女たちはどこにでもいるふつうの高校生でしかないのに、いや、それだからこそ、まばゆいばかりに輝いている。凄いことだ。だからこそ、彼女たちはこの映画のヒロインなのだ。そして、この映画を見た子供たちも彼女たちのように生きることで、同じように輝くことが出来る。
全力で今の自分たちの力を出し切る。その先にはきっと未来がある。それが成功なのか、失敗なのかは関係ない。ラスト、幕が上がった瞬間に映画のタイトルが出る。さあ、ここから始まる、という作者の願いがストレートに伝わってくる。
舞台の袖でキューを出す部長(百田夏菜子)の姿が胸に焼き付いて離れない。百田のその顔がこの映画のすべてだ。この瞬間のためにすべてがある。