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映画・演劇のレビュー

期間限定Saccharin『その鉄塔に女たちはいるという』

2011-02-22 00:16:19 | 演劇
 MONOの土田英生さんが書いた傑作戯曲を、男5人のところを、強引に女5人へと置き換えて上演したリニューアルヴァージョン。前回の『質屋』(ほんとうは『楽屋』です。間違いました。なかたさんから教えてもらいました。訂正します!)と同じように土橋淳志さんは彼女たちの自然体を大切にして演出する。基本的には役者であるまえに作家であり演出家でもある彼女たちが「演じる」ということは、作家の余芸のようなものになっても仕方がないところなのだが、反対にそういう側面こそを重視して、彼女たちの器用じゃないところ、硬い芝居こそを大切にする。と、言っても、竜崎さんや樋口さんは演出家ではなく、役者をメーンとしているのだから、本来とても芝居は上手いのだが、敢えて彼女たちのそういう側面も封じる。この5人の女たちは、なんだかとても頼りなさげで、不安そうに舞台に立つことになる。この作品はその緊張感を大切にする。そこが大事なのである。

 戦争が続く中、この鉄塔のところまで逃げてきて、不安の中で時を過ごす4人の旅芸人たち。彼女たちは慰問のためにこの戦場にやってきた。だが、戦況は混乱し、とてもそこにとどまることは出来なくなる。だから、逃げ出したのだ。そこに同じように戦場から逃げてきた女兵士が加わり、極限状態での日常が綴られていくことになる。

 原作は役者へのあて書きで、とても器用なMONOの役者たちが自分たちの個性を十二分に生かして演じた。土田さんの台本、演出はいつも通り、ニュアンス重視の芝居として立ち上げてある。それを、ニュアンスのかけらもない女性たちによる不器用な芝居によって、緊張感ばかりが高まるヒステリックな芝居として見せる。土橋演出は原作を越えようなんていう野心はない。原作に忠実にこの戯曲を再現する。ただし女たちによって、である。あまりにおとなしすぎて土橋くん本来の魅力がまるで感じられない芝居だ。でも、それこそが今回の作品のねらいなのだ。欲張ることなく、及第点の芝居を作ること。それが、結果的にこの作品のオリジナルの魅力を引き出すこととなる。

 この共同で生活する非日常の場において、ひとりひとりとなった女たちの不安と孤独を描き出すことで、MONOの芝居が本来持っていた可能性に対して別の視点からアプローチを試みる。ニュアンス重視で、器用に見せる上手い芝居ではなく、個々の役者が極限状態の中、なんとかやりとりする不器用でギリギリの姿を見せる。それこそが土橋くんの今回のやり方であり、それはある意味で成功している。それぞれ自分独自の世界を持つ5人の女性劇作家たちが、役者としてここにその生身の魅力をさらけだすことで見えてくるものが明確に示される作品となった。


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