まずは、『絶対の村上くん』から。これは『絶対の村上ちゃん』と同じ台本を使い、こちらは男性2人に演じさせる。演出も変わらないのだが、なぜかこちらのほうが、幾分重い作品になってしまう。ラストの自殺も女の子版よりも明確なものになった。村上ちゃんはあんなにも軽やかだったのに、村上くんはこんなにも重い。
感覚的な作品になった『村上ちゃん』に対して、理論的な『村上くん』は、悲劇に向かって一直線に突き進む。結果的には作品としては、『村上ちゃん』に遠く及ばないものとなってしまったが、それってなんだかおもしろい。
役者が悪いわけではない。ただ、これは女の子が演じるべき作品だったのだ。ただ、それだけの話だ。もちろんそれはただ女の子であれば誰でもいい、というわけではない。絶対に蔵本さんの村上ちゃんでなければならない、と思わせるところが、成功の理由だろう。でも、それだけではないことも明らかだ。ここに描かれる怖さは、要するに理屈ではない、という話なのだ。
『しまうまの毛』はサリngさんの初期短編を、オーディションで選ばれた6人の10代の女の子たちが演じる。この作品は、以前長編にもなった。さらには、昨年、本人の手で小説化もされた。彼女にとっては、とっても大切な作品だ。今回、オリジナルに戻っての再演となる。
説明的な部分は排除されてあるから、これだけではお話は完結しない。だが、もともとそういうタイプの作品ではない。少女たちの揺れる心情を捉えることが眼目だから、何があったのかとか、どうなったのか、とかいう理由はいらない。女子高の寮、屋上を舞台にして、本来なら立ち入り禁止であるそこに集う生徒たちの姿を描く。彼女たちが抱えるそれぞれの闇を、わかりあうためではなく、ただそのまま投げ出して、示すにとどめる。受け止めるのでもなく、受け入れるのでもない。ただ、そこに偶然居合わせた戸惑いだけ。しまうまの毛に守られるのか、閉じ込められるのか。それすらも、彼女たちにはわからない。
現役女子高生たちによるアンサンブルは、サリngさんのなかにあった「あの頃」の鬱屈をよみがえらせる。きれいに見せるのでも、どろどろとしたものとして描くのでもない。ただ、嵐が過ぎ去っていくのを待つように、あるいは、何事もなかったかのように、やり過ごす。清冽で、脆くて、でも、強い。そんな透明感あふれる空間を少女たちは見事に演じ切った。涙がでるほど、美しい。
感覚的な作品になった『村上ちゃん』に対して、理論的な『村上くん』は、悲劇に向かって一直線に突き進む。結果的には作品としては、『村上ちゃん』に遠く及ばないものとなってしまったが、それってなんだかおもしろい。
役者が悪いわけではない。ただ、これは女の子が演じるべき作品だったのだ。ただ、それだけの話だ。もちろんそれはただ女の子であれば誰でもいい、というわけではない。絶対に蔵本さんの村上ちゃんでなければならない、と思わせるところが、成功の理由だろう。でも、それだけではないことも明らかだ。ここに描かれる怖さは、要するに理屈ではない、という話なのだ。
『しまうまの毛』はサリngさんの初期短編を、オーディションで選ばれた6人の10代の女の子たちが演じる。この作品は、以前長編にもなった。さらには、昨年、本人の手で小説化もされた。彼女にとっては、とっても大切な作品だ。今回、オリジナルに戻っての再演となる。
説明的な部分は排除されてあるから、これだけではお話は完結しない。だが、もともとそういうタイプの作品ではない。少女たちの揺れる心情を捉えることが眼目だから、何があったのかとか、どうなったのか、とかいう理由はいらない。女子高の寮、屋上を舞台にして、本来なら立ち入り禁止であるそこに集う生徒たちの姿を描く。彼女たちが抱えるそれぞれの闇を、わかりあうためではなく、ただそのまま投げ出して、示すにとどめる。受け止めるのでもなく、受け入れるのでもない。ただ、そこに偶然居合わせた戸惑いだけ。しまうまの毛に守られるのか、閉じ込められるのか。それすらも、彼女たちにはわからない。
現役女子高生たちによるアンサンブルは、サリngさんのなかにあった「あの頃」の鬱屈をよみがえらせる。きれいに見せるのでも、どろどろとしたものとして描くのでもない。ただ、嵐が過ぎ去っていくのを待つように、あるいは、何事もなかったかのように、やり過ごす。清冽で、脆くて、でも、強い。そんな透明感あふれる空間を少女たちは見事に演じ切った。涙がでるほど、美しい。