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映画・演劇のレビュー

スケッチブック☆シアタープロジェクト『月の下、川の右岸』

2012-06-19 21:05:48 | 演劇
 モデルにした『東電OL殺人事件』にはあまりこだわらないほうがいい。これはあくまでも武藤さんによるフィクションとして、見たほうがよいと思うからだ。だが、あまりにあからさまに引用してあるから、せっかく魅力的な作品なのに、そのバランスが崩れたのが惜しい。ワイルダーの『わが町』や、漱石の『こころ』と、あの事件は違う。引用では済まされない。ノンフィクションをフィクションのなかに混じりこませるのは、作者の強い意志と覚悟が必要になる。中途半端は許されないのだ。自分の作品世界を構築していくうえで、どこまでが許され、どこからは無理なのか、その匙加減って、とても難しいことだ。彼女がどうして壊れてしまったのかが、これでは見えてこない。きれいごとでは描けないはずなのだ。

 武藤さんの渾身の力作であることは認める。彼の優しさがとてもよく出ていて気持ちのいい作品に仕上がっている。あの美術もすばらしい。十三の河川敷を見事に再現している。土手の斜面の芝生で寝転がり、ぼんやりすることの幸福がちゃんと伝わってくる。ほんとうに気持ちがよさそうなのだ。だが、そこで展開する恋物語が、死者との交流である、ということが、傷ましい。でも、その前提から彼らの三角関係を洗い出していくというのが、彼の今回のアプローチなのだから、これは仕方のないことなのだ。では、どういうふうにそれが出来たのか。そこをちゃんと考えてみよう。

 これは先生と2人の女生徒の話だ。2人は高校の演劇部の先輩と後輩で、2人とも顧問の先生が好きだ。お互いの気持ちは言わなくてもわかっている。抜け駆けした先輩と先生が結婚し、後輩が自殺するという設定にすれば『こころ』になるのだが、そんなもの、わざわざ『こころ』だと断わるまでもない。どこにでもあるありふれた話だからだ。だが、そうではない。先生が先輩と結婚し、取り残された後輩は、やがてOLをしながら、夜は売春をしていて、お客である出稼ぎ外国人に殺された、という展開になる。この木に竹を接ぐような設定には無理がある。もっとストレートな話でよかったのではないか。

 死者がやってきて、生きているものと、同じ時間を過ごす。それが高校の近所にある河川敷で、そこは昔から彼らが心休める場所だった。主人公である教師は、時間が出来れば今も、ここでぼんやりと時を過ごす。この芝居のよさは、ストーリーで語るのではなく、そんなとりとめもない風景をきちんと見せるところだ。それだけに、強引な話の展開が残念でならない。


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1 コメント

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Unknown (ムトウ トヨヒロ)
2012-06-21 23:44:43
先日は、スケッチブック☆シアタープロジェクト公演にご来場いただき、誠にありがとうございました。

なかなか手厳しい(苦笑)劇評でもありますが、じゃあ、自分はこの芝居で何がダメだったのか、何が伝えられなかったのか、本当に伝えたかった思いはなんなのか、、、そのあたりがこの劇評で腑に落ちたというか、スッと理解できたというか、、、今更なんですが(^^ゞ

また、春演の後夜祭で、いろんな話を聞かせてください。
本当にありがとうございました。
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