とても刺激的なアイデアである。いつもながら外輪さんは果敢に新しいことに取り組む姿勢を崩さない。守りに入るなんて言葉を知らない人だ。いつももっと面白いことはないか、と頭を巡らし、思いつき(ひらめき、という方がいいかぁ)を即、芝居に起用してしまう。なのに安易な企画はない。溢れ出るアイデアを全て芝居にしていきたくて、その結果エレベーター企画の公演本数が多くなる。
今回は辻野加奈恵さんに頼まれての外部演出だが、まるでいつもと変わりない。自分の企画のようにこの作品を楽しんでいる。もちろん自分の企画なら、チェーホフなんてしないだろうが、「チェーホフ面白いね、じゃぁ、どんとやってみよう」なんていう彼の声と、あの笑顔が浮かんでくるような芝居だ。
劇場に入ったらまず、驚く。舞台にはまるで壁そのもののように黒い塀が建っている。その圧迫感はかなりのものだ。巨大な黒板が客席に向かって、聳えている。創造館を横に使った組み方をしているので、客席は横に広く奥行きがない。舞台も自然に横長になっている。そこに一杯一杯にその黒い壁が立ち塞がるのである。椅子席の最前列とその壁には距離がなく、大接近しているから、自然とアクティングエリアは狭くなる。壁が斜めになっているため、上手側は幾分広いが、下手はかなり接近しており、役者が目の前に立つと、足がぶつかりそうになるくらいだ。
そんなステージに装置はいくつかの箱馬と、大小2つの脚立だけ。この空間が舞台の進行と共に、あっと驚く変貌を遂げる。仕掛けはチョークである。黒板とチョーク。それが今回の魔法だ。8人の役者たちは、それぞれのキャラクターに合わせた日常的なのに、個性的な衣装を身に付ける。全員靴まで白に統一されている。彼ら関西小劇場でも屈指の役者陣がこの『かもめ』を演じることになる。
開演してまず、この芝居の語り手であるニーナ(辻野可奈恵)によって彼ら役者が紹介される。例えば「桃園会の紀伊川さんです。彼がコースチャを演じてくれます。」なんて感じだ。その前に彼女自身の自己紹介まである。辻野自身の演劇体験が語られ、そんな彼女がチェーホフとどう出会い、今から彼の「かもめ」という戯曲を舞台化することになったいきさつなんかが、独白として語られる。
芝居全体もまた、彼女の語りで綴られていくことになる。彼女が主人公であるはずなのに、なぜか芝居から一番遠いところにいる。そんな不条理がベースとなりこの作品は展開していく。役者たちはチョークを手に持ち、背後の巨大な黒板にお絵かきをする。その絵を背景にして、演じていくのだ。黒板に描かれた絵は、この芝居の舞台美術となり、それがこの芝居の作品世界そのものと化していく。この仕掛けが面白い。芝居は、演じていくはなから消えていくものなのに、この芝居には確かな痕跡が残る。舞台にはたくさんの絵がどんどん増えていき、それが目に見えて残っていく。膨大な量の宇宙がそこには広がっていく。
ニーナとコースチャを巡る群像劇なのだが、ドラマは主人公2人に収斂されていかないで、反対にどんどん拡散していく。この芝居は求心的ではなく、遠心的なものとして成立する。芝居が進むにつれて、主人公は芝居から遠ざかっていく。否、最初からニーナはこの芝居にはいない。この構造に気付く時、演出家の意図は明確になる。外輪さんは、この芝居を主人公不在のものとして最初から計算して作る。そこにいるはずなのに、いないこと。彼女はこの世界を目撃し、ここで生活していながら、ここから意識は遠のいている。彼女がモスクワに行くのは当然のことなのだ。モスクワでの彼女は、当然語られない。2年後、帰ってきた彼女がみんなの前に姿を見せないのも当然のことだ。
テキストであるチェーホフの『かもめ』を解体して、再構築し、コラージュさせていく過程で、外輪演出は、エピソードが断片として浮かび上がっていくように見せる。ドラマとしての繋がりをできるだけ、なくすように腐心している。そのため芝居としては見にくいものとなった。単純なお話を解りにくくするような形で、点描としてのエピソードが、ぽつんぽつんと見え隠れするように流れていくことで、作品は求心力を失うと、同時に、この100年以上前の遠いロシアの戯曲は、遠くも近くもないひとつの客観的な物語として見えてくる。そのまんまのこの話が提示されることになる。その結果、全く自分のことでないように語られるのに、この話はある種の普遍性を獲得する。今望み得る最良の形での古典の再生を、外輪演出は可能とした。
今回は辻野加奈恵さんに頼まれての外部演出だが、まるでいつもと変わりない。自分の企画のようにこの作品を楽しんでいる。もちろん自分の企画なら、チェーホフなんてしないだろうが、「チェーホフ面白いね、じゃぁ、どんとやってみよう」なんていう彼の声と、あの笑顔が浮かんでくるような芝居だ。
劇場に入ったらまず、驚く。舞台にはまるで壁そのもののように黒い塀が建っている。その圧迫感はかなりのものだ。巨大な黒板が客席に向かって、聳えている。創造館を横に使った組み方をしているので、客席は横に広く奥行きがない。舞台も自然に横長になっている。そこに一杯一杯にその黒い壁が立ち塞がるのである。椅子席の最前列とその壁には距離がなく、大接近しているから、自然とアクティングエリアは狭くなる。壁が斜めになっているため、上手側は幾分広いが、下手はかなり接近しており、役者が目の前に立つと、足がぶつかりそうになるくらいだ。
そんなステージに装置はいくつかの箱馬と、大小2つの脚立だけ。この空間が舞台の進行と共に、あっと驚く変貌を遂げる。仕掛けはチョークである。黒板とチョーク。それが今回の魔法だ。8人の役者たちは、それぞれのキャラクターに合わせた日常的なのに、個性的な衣装を身に付ける。全員靴まで白に統一されている。彼ら関西小劇場でも屈指の役者陣がこの『かもめ』を演じることになる。
開演してまず、この芝居の語り手であるニーナ(辻野可奈恵)によって彼ら役者が紹介される。例えば「桃園会の紀伊川さんです。彼がコースチャを演じてくれます。」なんて感じだ。その前に彼女自身の自己紹介まである。辻野自身の演劇体験が語られ、そんな彼女がチェーホフとどう出会い、今から彼の「かもめ」という戯曲を舞台化することになったいきさつなんかが、独白として語られる。
芝居全体もまた、彼女の語りで綴られていくことになる。彼女が主人公であるはずなのに、なぜか芝居から一番遠いところにいる。そんな不条理がベースとなりこの作品は展開していく。役者たちはチョークを手に持ち、背後の巨大な黒板にお絵かきをする。その絵を背景にして、演じていくのだ。黒板に描かれた絵は、この芝居の舞台美術となり、それがこの芝居の作品世界そのものと化していく。この仕掛けが面白い。芝居は、演じていくはなから消えていくものなのに、この芝居には確かな痕跡が残る。舞台にはたくさんの絵がどんどん増えていき、それが目に見えて残っていく。膨大な量の宇宙がそこには広がっていく。
ニーナとコースチャを巡る群像劇なのだが、ドラマは主人公2人に収斂されていかないで、反対にどんどん拡散していく。この芝居は求心的ではなく、遠心的なものとして成立する。芝居が進むにつれて、主人公は芝居から遠ざかっていく。否、最初からニーナはこの芝居にはいない。この構造に気付く時、演出家の意図は明確になる。外輪さんは、この芝居を主人公不在のものとして最初から計算して作る。そこにいるはずなのに、いないこと。彼女はこの世界を目撃し、ここで生活していながら、ここから意識は遠のいている。彼女がモスクワに行くのは当然のことなのだ。モスクワでの彼女は、当然語られない。2年後、帰ってきた彼女がみんなの前に姿を見せないのも当然のことだ。
テキストであるチェーホフの『かもめ』を解体して、再構築し、コラージュさせていく過程で、外輪演出は、エピソードが断片として浮かび上がっていくように見せる。ドラマとしての繋がりをできるだけ、なくすように腐心している。そのため芝居としては見にくいものとなった。単純なお話を解りにくくするような形で、点描としてのエピソードが、ぽつんぽつんと見え隠れするように流れていくことで、作品は求心力を失うと、同時に、この100年以上前の遠いロシアの戯曲は、遠くも近くもないひとつの客観的な物語として見えてくる。そのまんまのこの話が提示されることになる。その結果、全く自分のことでないように語られるのに、この話はある種の普遍性を獲得する。今望み得る最良の形での古典の再生を、外輪演出は可能とした。