中沢けいの原作は発表されたときに読んだ。現役女子高生による作品というのが、当時は評判になったけど、あの頃は自分も小説家を目指していたから、同世代としてショックだった。先を越された、とかいう大胆なことを言うつもりはない。自分にそれだけの才能があるとは思わないけど、なんだか悔しかったことだけは憶えている。
時代は変わった。今では誰でも、小説家にも映画監督にだってなれる。(わけではないかぁ)ただ、あの頃のように、手の届かないものではない。簡単に何かになれそうで、でも、そうは行かないのも事実だろう。
ここで描くのは、70年代の青春である。それはそれで、とても生きづらい時代だ。あの頃の閉塞感がよみがえるような映画だった。30年もこの台本はお蔵入りしてきたらしい。30年前に荒井晴彦が書いた脚本をそのまま、今、映画化する。時代設定もそのまま。そうじゃなくてはここに描かれる気分は理解できない。いろんなことが重い。そんな時代だ。
こんな女の子や、こんな男の子がいたら、いやだな、と思う。あの頃はそう思った。今、映画になったその世界を目撃して、やはり、同じことを思う自分に笑ってしまう。変わらない。「好きじゃなけど、女の体には興味がある」そんなふうに言われても、彼に身を投げ出す少女の気持ちなんか、わからない。映画はそんな女の子に寄り添う。その頃は若かったし潔癖だったから、生理的に不快だった。その気分は、今見ても、変わらない。
安藤尋監督は『痴漢白書5』を見て、好きになった。あのセミポルノの中で描かれた人間関係が凄いと思った。だから、彼が劇場用映画を撮る日をずっと楽しみにして、待った。
だが、なかなかその日は訪れない。ようやく手にした機会、『dead BEAT』は不本意な作品だった。哀川翔主演のアクションというパッケージングでは、仕方ないことだったのかもしれない。その後、『blue』でようやく彼らしい作品を見ることが出来た。だが、それまでだ。これは、と思った『僕は妹に恋をする』は、不発だった。そして、今回もまた。
どうして、こうなるのだろうか。描こうとすることは、彼の世界に叶う。見せ方も彼のやり方だと、思う。しかし、描かれたものは心に響かない。 今考えると、『痴漢白書5』の何があんなに僕の心を揺らしたのか。あの作品を見た当時の自分に聞いてみたい。
とても、痛い映画だ。母親との確執、彼への想い。やがて、彼を拒否するまで。わからないではない。琴線に触れる作品になる可能性はあった。だが、微妙な部分で、すれ違う。僕には、理解しきれない。
時代は変わった。今では誰でも、小説家にも映画監督にだってなれる。(わけではないかぁ)ただ、あの頃のように、手の届かないものではない。簡単に何かになれそうで、でも、そうは行かないのも事実だろう。
ここで描くのは、70年代の青春である。それはそれで、とても生きづらい時代だ。あの頃の閉塞感がよみがえるような映画だった。30年もこの台本はお蔵入りしてきたらしい。30年前に荒井晴彦が書いた脚本をそのまま、今、映画化する。時代設定もそのまま。そうじゃなくてはここに描かれる気分は理解できない。いろんなことが重い。そんな時代だ。
こんな女の子や、こんな男の子がいたら、いやだな、と思う。あの頃はそう思った。今、映画になったその世界を目撃して、やはり、同じことを思う自分に笑ってしまう。変わらない。「好きじゃなけど、女の体には興味がある」そんなふうに言われても、彼に身を投げ出す少女の気持ちなんか、わからない。映画はそんな女の子に寄り添う。その頃は若かったし潔癖だったから、生理的に不快だった。その気分は、今見ても、変わらない。
安藤尋監督は『痴漢白書5』を見て、好きになった。あのセミポルノの中で描かれた人間関係が凄いと思った。だから、彼が劇場用映画を撮る日をずっと楽しみにして、待った。
だが、なかなかその日は訪れない。ようやく手にした機会、『dead BEAT』は不本意な作品だった。哀川翔主演のアクションというパッケージングでは、仕方ないことだったのかもしれない。その後、『blue』でようやく彼らしい作品を見ることが出来た。だが、それまでだ。これは、と思った『僕は妹に恋をする』は、不発だった。そして、今回もまた。
どうして、こうなるのだろうか。描こうとすることは、彼の世界に叶う。見せ方も彼のやり方だと、思う。しかし、描かれたものは心に響かない。 今考えると、『痴漢白書5』の何があんなに僕の心を揺らしたのか。あの作品を見た当時の自分に聞いてみたい。
とても、痛い映画だ。母親との確執、彼への想い。やがて、彼を拒否するまで。わからないではない。琴線に触れる作品になる可能性はあった。だが、微妙な部分で、すれ違う。僕には、理解しきれない。