なんと不穏な薄さ。濃厚なストーリーではない。淡いような、でも決定的な断絶感を抱かせる仄暗い世界がそこには漂っている。冒頭の『叩く』はまるで芥川の『羅生門』ではないか。あの下人が現代に甦ってきたように、善と悪に引き裂かれる。もちろん彼は悪だ。生きるためなら仕方なくする。だが、まだ逡巡している。絶対的な悪にはなりきらない。彼には老婆を殺すことはできないだろう。
ふたつ目の『アジサイ』は何故カタカナだろうか。紫陽花でもなく、あじさいでもない。些細なこだわりですらないけど、気になる。妻が出て行った理由はわからない。自分に落ち度はないはずだが、気が付かないだけかも知れない。ずっと考えているが、わからない。
『風力発電所』の青森は彼の故郷であるはずなのに、まるで知らない場所に見える。南部の生まれだから、下北半島や津軽は別の国だったかもしれない。六ヶ所村の原発(いやここには原発はない、けど)のことには一切触れない。クリーンな風力発電所を見に行く。核燃料再処理工場を取り巻く問題を描くわけではない。何も悪いことはしてないのに、この後ろ暗さは何か。彼は東京に戻って日常に帰る。妻は美味しい料理をして待つ。
4つ目の『埋め立て地』は子どもの頃の思い出。建設現場に忍び込んで見つけた横穴に入ったこと。真っ暗な中、1キロ以上歩いた。ほんとの話じゃないかもしれない。小学6年の夏休み前の日。あんな冒険が70年代ならまだあった。あれから20年以上が経つ。息子はあの頃の彼くらいになる。
そして最後。『海がふくれて』。これは中編のボリュームだが、これまでの4篇以上に何も起きない。17歳の夏、ひとりの女の子と彼女の幼なじみで今は恋人でもある男の子の夏休みの日々のスケッチ。平穏な日々がダラダラと続くばかりの夏。事件も起きないけど、やはり何か不穏な気分が持続する。もしかしたらまた何かが起きるかもしれない。10年前、父が津波に攫われたように。そして最後に事件は起きる。波に攫われ死にそうになる。冒頭に描かれる灯台と死んだ父親、そして恋人の青年が助けてくれる。
5つの作品は別々の作品だが、ひとつにつながる。日常のすぐ横に非日常が横たわる。それは死と言っていい。死と生は背中合わせになっている。そんな綱渡りの中に僕たちの日常はある。