『ただ君を愛してる』の新城毅彦監督最新作。宮崎あおいと玉木宏主演のあの映画は傑作だった。だから同じような発想のタイトルによる今回の作品も、彼なら期待以上の作品に仕立ててくれるものと期待していたのだが、なかなか難しかったようだ。
究極の大甘ラブストーリーであることには問題はない。少女マンガが原作なので前作以上にクサイ映画になるのは、当然のことで、そこを避けてリアリティーを追求する必要はこの素材の場合は意味がない。照れることなく原作の設定や、セリフをそのまま使うのも悪くはない。こういう話はいらぬ小細工は不要なのだ。恥ずかしがらずに堂々と少女漫画を演じればよい。
だが、それだけでは映画は成立しない。あきれるような話が命を持つのは、そこに「この世界」でのリアリティーを感じた時だ。主人公の2人が、幼い頃に決めた覚悟を貫き通すことで、冗談ではない本気を感じさせられる時、この映画は力を持ち、輝きを放つ。
20歳まで生きられないと言われた男の子と、キスをする少女。幼い日のこの約束からスタートする。おしゃまな女の子に引きずられるように生きていく少年。中学生になり、やがては高校生になる。岡田将生と井上真央が2人を演じる。
周囲が公認の理想のカップル。いつも一緒で2人の世界を持つ。でも、男の子は彼女を不幸にしたくないから、彼女と別れるため全寮制の高校に入ろうとする。自分の病気のせいで彼女をこれ以上苦しめたくはない、というよくあるパターン。彼女はそれをあざ笑うかのようにちょっとやそっとの実力では入れないその高校にトップで合格する。
でも、入学式でのあのスピーチはいくらなんでもやり過ぎ。いくら映画であろうとも、神聖な儀式をぶち壊すようなことをしてはならない。あれでこの映画は100%信頼を失う。このドラマの展開からならなんでもありであったとしても、やり過ぎはよくない。
心臓移植の件(ドナー側の母親が承諾しないから不可能になる、という展開は納得できるが、それさえ不幸をお膳立てする材料に見える)とか、最後になぜか気力でよみがえって1日を過ごすとか、結局、ただのパターンに終始する。この映画にしかできないことはどこにも描かれない。ただの難病悲恋ものでしかなかった。新城監督なので、映像は美しいし、2人の素直な気持ちは確かに伝わってくるし、決して悪い映画ではない。だが、彼に期待したのはそんな当たり障りのない映画ではない。これではダメだ。
究極の大甘ラブストーリーであることには問題はない。少女マンガが原作なので前作以上にクサイ映画になるのは、当然のことで、そこを避けてリアリティーを追求する必要はこの素材の場合は意味がない。照れることなく原作の設定や、セリフをそのまま使うのも悪くはない。こういう話はいらぬ小細工は不要なのだ。恥ずかしがらずに堂々と少女漫画を演じればよい。
だが、それだけでは映画は成立しない。あきれるような話が命を持つのは、そこに「この世界」でのリアリティーを感じた時だ。主人公の2人が、幼い頃に決めた覚悟を貫き通すことで、冗談ではない本気を感じさせられる時、この映画は力を持ち、輝きを放つ。
20歳まで生きられないと言われた男の子と、キスをする少女。幼い日のこの約束からスタートする。おしゃまな女の子に引きずられるように生きていく少年。中学生になり、やがては高校生になる。岡田将生と井上真央が2人を演じる。
周囲が公認の理想のカップル。いつも一緒で2人の世界を持つ。でも、男の子は彼女を不幸にしたくないから、彼女と別れるため全寮制の高校に入ろうとする。自分の病気のせいで彼女をこれ以上苦しめたくはない、というよくあるパターン。彼女はそれをあざ笑うかのようにちょっとやそっとの実力では入れないその高校にトップで合格する。
でも、入学式でのあのスピーチはいくらなんでもやり過ぎ。いくら映画であろうとも、神聖な儀式をぶち壊すようなことをしてはならない。あれでこの映画は100%信頼を失う。このドラマの展開からならなんでもありであったとしても、やり過ぎはよくない。
心臓移植の件(ドナー側の母親が承諾しないから不可能になる、という展開は納得できるが、それさえ不幸をお膳立てする材料に見える)とか、最後になぜか気力でよみがえって1日を過ごすとか、結局、ただのパターンに終始する。この映画にしかできないことはどこにも描かれない。ただの難病悲恋ものでしかなかった。新城監督なので、映像は美しいし、2人の素直な気持ちは確かに伝わってくるし、決して悪い映画ではない。だが、彼に期待したのはそんな当たり障りのない映画ではない。これではダメだ。