この夏、映画化されて上映された作品のノベライズである。岩井俊二監督の傑作TVドラマを膨らませて(原作は45分)90分にした映画については、見た時にも書いたが、とてもがっかりさせられた。そして、この小説は、あの映画のシナリオを手掛けた大根仁が自ら手掛けた作品である。だから、実は最初から何も期待していない。でも、もしかしたら、あの映画で描き切れなかったものがここにはあるのかもしれないと、ほんの少し甘い期待を抱いて読み始めた。
これを読むと、なぜ、あんな映画になったのかがよくわかる。大根監督の意図したものはあのアニメーション映画以上にここには明確だ。何度でも繰り返すことが出来たなら、という映画でも描かれた部分がさらに丁寧に説明される。だけど、この作品のすばらしさはそこではないことも事実だ。
「もしも、、、」は一度だったから意味がある。そして、それは現実ではない。典道が願うもしもあの時、が現実になったとき、彼が感じた後悔。それすら含めて、この世界=現実の傷み。それがあのオリジナル作品が描いたことだ。少年と少女が夢見た夏の1日。最後の時間。それは繰り返される「もしも」なんかではない。
この小説は、これはこれで、悪くない。少なくとも、僕はあの映画よりは好きだ。でも、原作の持つ魅力を膨らませたモノではない。というか、あの作品を膨らませる必要なんかないのだ。あれは45本の短編映画として完成形を提示している。岩井俊二監督が子どもたちの夏の日を哀切に描いた日本映画史に残る永遠の名作は燦然と輝く墓碑銘としてそこにある。
それに挑んだ大根仁とあの映画のスタッフたちは不可能と知りつつも、自分たちなりのアプローチをした。原作へのオマージュとリスペクトを忘れることなく、新しい『打ち上げ花火、』に挑戦したのだろう。負けるとわかっていても戦いを始めることもある。これはそんな戦いの記録だ。あの映画で、一番素晴らしかったのは電車の中で松田聖子を歌うシーンだ。映画は何を描くべきなのかを示唆する。なんでもない時間が輝く瞬間。それは彼らだけが知っている。あれは岩井俊二作品にはなかったこの映画だけのオリジナルだ。
大根仁は、この小説を通して原作を大事に再現しながら、あの映画のその先まで見通した。少年たちの夏の終わりも描こうとした。とても、大事なものをもっと大切にするためには何が必要か、でも、そうすることで何を失うのか。それがここにはある。