久しぶりの木下恵介映画として見た『二人で歩いた幾春秋』があまりに素晴らしすぎて、彼の映画に夢中になっていた子供の頃(と言っても中学生の頃だけど)を思い出していた。始まりはそれこそほんとうの子供だった10歳くらいに遡る。親と一緒に(というか、親が見ていたのだろうが)見ていた木下恵介アワーの記憶だ。『二人の世界』が好きだった。『おやじ太鼓』もよく憶えている。きっとあの辺から始まったのだろう。意識的に見た記憶は『思い橋』だ。主題歌も今でも歌えるくらいに嵌った。毎週の展開が気になって仕方なかった。旅人である藤岡弘(もちろん『仮面ライダー』でファンになった)に感情移入して、お話の世界に引き込まれた。木下恵介の映画を追いかけ始めたのもあれがきっかけだったのだろう。定番の『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾年月』の2本は決定打になったことは前回書いた。
今日、『二人で歩いた幾春秋』の前年公開されている『永遠の人』を見た。実はその前に昨日『花咲く港』を先に見ている。これは木下のデビュー作でこれもまた素晴らしい作品だったし、木下映画らしい優しい映画で、43年にこんな作品から彼のキャリアが始まったのか、と興味深かったが、今回の『永遠の人』の衝撃は半端じゃない。これは凄い傑作である。
彼のキャリアの頂点はこの作品と『二人で歩いた幾春秋』にあったのではないかという新発見があった。僕はそんなことも知らなかった。しかも、この2作は1961年、62年と続けて作られた姉妹編のような作品だった。『二人で歩いた幾春秋』は『明』で、『永遠の人』は『暗』。前者は昭和21年から62年。後者は昭和7年から61年まで。そこまでの彼の映画人生の総決算としてこの2本が作られたのだということが見ればわかる。もちろん数ある秀作群を無視しているわけではない。ただ、あの時代に日本の戦後を振り返る仕事をこの2作で彼はしたのか、ということを知れたのがうれしい。たまたまの一致だが、ちょうど、この2作が作られたのは僕が生まれた頃である。『永遠の人』のラストで希望の象徴として生まれてきた子供は、僕と同じ59年の生まれだ。映画史的に代表作として認知された『二十四の瞳』と『喜びも悲しみも幾年月』の2作を今まで僕も一番だと思ってきたが、見ていないだけで、彼にはまだまだすごい作品がある。この機会に順次見ていこうと思う。
さて、『永遠の人』である。何が凄いかというと、これが30年間自分を嫌う女をひたすら愛し続けた男と、彼を憎み続けた女のお話だったということだ。クロニクルは木下映画の得意技だけれど、それをこういう形で見せるなんて、思いもしなかった。仲代達矢が悪役を(嫌な男の役を)演じた。最後まで、どんなに嫌われていても彼女を離さない。悲しい男の役だ。そして、高峰秀子は好きな人(もちろん佐田啓二)と引き離されて、意に沿わない男と一生を送る女を演じる。だが、それはよくある薄幸の女ではない。彼女の意思の強さに驚く。このお話がどこに向かうのか、目が離せない。どうしても許せない男と女が向き合うラストシークエンスの緊張感は半端じゃない。阿蘇の雄大な自然をバックにして、こんな激しい男女の愛憎劇を戦時中から高度成長期に突入する直前の日本(と日本人)を描く壮大な作品として提示した。ここに描かれる男女の姿はあの時代の日本人そのものだ。彼はこの国が戦争を通してどこに向かったのかを、自分の映画人生を掛けて、しっかりと検証した。遅れてきたけど、その目撃者の一員になれてうれしい。
僕が初めてリアルタイムで木下映画を見たのは彼が10年のブランクを経て再起動した77年の『スリランカの愛と別れ』からだ。ようやく木下作品を公開時の劇場で見れるのだと喜んで行ったのだが、まるでピンとこなかった。高校生だったからだけではなかろう。内容も陳腐なメロドラマだったと記憶している。その後、遺作になった『新・喜びも悲しみも幾年月』まで、すべての映画を劇場で公開時に見た。それがあの当時の僕にできる唯一のことだ。そして、どの映画も、もう時代とは合わなかった。遺作があの傑作のリニューアルされたセルフリメイクだったのも無残だ。(でも、映画は植木等の好演もあり、悪くはない作品だったのだが)
いろんなことが思い出される。今、再び木下恵介のマイブームを体感しながら、自分が何を望み、何が好きだったのかを改めて実感している。43年のデビューから、62年の『二人で歩いた幾春秋』まで。数々の名作を残して時代を走り抜けて行った。今更だけど、日本映画を代表する巨匠の仕事から目が離せない。僕は黒沢や小津よりやっぱり木下恵介が好きだったのだ、と再認識させられた。