扇町ミュージアム・スクエアのキャンパス・カップで見た初演は衝撃的だった。だいたいこのタイトルが凄い。そして、他の生ぬるい学生演劇とは一線を画する。当時の僕はあの1本で完全にノックアウトされた。
その後、横山さんはあの作品を越える作品を書けなかった。試行錯誤を繰り返す初期の売込隊ビームの作品は、痛々しいながらも、確かに心に残る傑作ぞろいである。デビュー作を生涯超えれない作家は山のようにいる。そこにはなんら問題はない。
彼はこれと同じようなテイストの作品を繰り出しながら、不気味で居心地の悪い作品を作り続けた。同時に『お気楽ショートストーリー集』として、短編で、単純に楽しめる作品も並行して作った。そのうちある時から、とても軽やかで口当たりのいい作品が増えてきた。その軽さが僕は気になった。
12年である。今、再び横山さんがあの『トバスアタマ』に挑戦する。厳密に言うとこれは再演ではない。新作である。初演にインスパイアされて、今の気分からあの作品をリメイクしたならどうなるのかに挑戦したのだ。ただしメーンのイメージは当然同じだ。母親と息子だけの食卓。母親による虐待。少年のなかで変化してくるもの。それが、この新作では地域の人たちとの関係性の中から描かれていくこととなる。初演とはそこが明らかに違う。初演はもっと自閉的で内面的なドラマだった。
最近、小さなコミュニティーにおける関係性を丁寧に描いていく作品が何本か続いているが、今回もその流れを汲む作品だ。初心に戻るのではなく、どんどん前にむかって変化していく。オリジナルの基本設定以外はまるで遺さない。
芝居は、母子家庭の中での「精神的な虐待」に拘る。だが、横山さんは主人公の2人を外部から完全にシャットアウトしていくわけではない。それどころか、彼らは周囲に蹂躙されていく。どんどん入ってくる外部をあの母親であっても未然に防ぐことは出来ない。2人は善意と好奇の目に曝され、翻弄されていく。
とても弱くて脆い母と子の絆が、突然やってきた男(彼女を棄てた男であり、次郎の父親である)の暴力によって完全に破壊される。このラストシーンは衝撃的だ。あの母親が守り続けてきたものは一体何だったのか。子どもに男と同じ次郎という名をつけて(しかも、子供は女の子である!)育ててきた。それは自分を棄てた男への復讐だったのか。子どもへの精神的な暴力(彼女は決して次郎に手を上げたりはしない)はなんだったのか。少女が母親に怯えながら暮らす日々は何だったのか。
中学生の息子、次郎(辻るりこ)は母親(楠見薫)と2人暮らしだ。学校で生物係をしていることがばれてからは学校にも行かせてもらえない。そんなある日、担任(山田かつろう)が、クラスメートの少女(橋爪未萌里)と、児童相談所の職員(宮都謹次)を伴ないやってくる。
冒頭の食事のシーンにはドキドキさせられる。幻の父親(アクサルの田淵法明だ!)との対話によって精神のバランスをとって生きている次郎は、母親の精神的な暴力の前で女の子であるにも関わらず男の名前をつけられて、男として暮らすことを強要されてきた。母には一切逆らえない。母が学校に行くな、というから家を出ることすらかなわない。これぞ『トバスアタマ』だ、と思った。楠見さんが凄い。彼女の鉄面皮には凍りつかされる。
だが、その後の展開はまるで初演とは違う。先に書いた先生たちや、さらには地域に住人たちがどんどん2人に関与してくる。
その癖、近所に住む男が飼う犬と、同じように近所の夫婦の妻の、身体と心が入れ替わっているというサイドストーリーにはそれ以上の発展はないし、だいたいなぜそんなことになったのかもわからないままで放りだされる。クラスメートの少女は同居するおじさんから厭らしい目で見られていると訴える。おじさんは彼女の下着を触ったり、部屋を覗いたりする、らしい。だが、当然のようにおじさん自身はそんな行為を否定する。この2つのエピソードも含めて、明確な起承転結はないまま、ドラマは宙吊りにされていく。そこに、次郎の父親らしい男による突然の暴力である。そこで芝居は唐突に終わる。あっけなさ過ぎて驚く。だが、見事な幕切れだ。
今、虐待なんて、日常茶飯事の出来事と化している現実の中で、この芝居が取り上げる恐怖は明確な敵の見えない状況の中ですべてが淡いままどんどん進行し、それすら日常に埋もれていくという事態が描かれる。これは必見の傑作である。
その後、横山さんはあの作品を越える作品を書けなかった。試行錯誤を繰り返す初期の売込隊ビームの作品は、痛々しいながらも、確かに心に残る傑作ぞろいである。デビュー作を生涯超えれない作家は山のようにいる。そこにはなんら問題はない。
彼はこれと同じようなテイストの作品を繰り出しながら、不気味で居心地の悪い作品を作り続けた。同時に『お気楽ショートストーリー集』として、短編で、単純に楽しめる作品も並行して作った。そのうちある時から、とても軽やかで口当たりのいい作品が増えてきた。その軽さが僕は気になった。
12年である。今、再び横山さんがあの『トバスアタマ』に挑戦する。厳密に言うとこれは再演ではない。新作である。初演にインスパイアされて、今の気分からあの作品をリメイクしたならどうなるのかに挑戦したのだ。ただしメーンのイメージは当然同じだ。母親と息子だけの食卓。母親による虐待。少年のなかで変化してくるもの。それが、この新作では地域の人たちとの関係性の中から描かれていくこととなる。初演とはそこが明らかに違う。初演はもっと自閉的で内面的なドラマだった。
最近、小さなコミュニティーにおける関係性を丁寧に描いていく作品が何本か続いているが、今回もその流れを汲む作品だ。初心に戻るのではなく、どんどん前にむかって変化していく。オリジナルの基本設定以外はまるで遺さない。
芝居は、母子家庭の中での「精神的な虐待」に拘る。だが、横山さんは主人公の2人を外部から完全にシャットアウトしていくわけではない。それどころか、彼らは周囲に蹂躙されていく。どんどん入ってくる外部をあの母親であっても未然に防ぐことは出来ない。2人は善意と好奇の目に曝され、翻弄されていく。
とても弱くて脆い母と子の絆が、突然やってきた男(彼女を棄てた男であり、次郎の父親である)の暴力によって完全に破壊される。このラストシーンは衝撃的だ。あの母親が守り続けてきたものは一体何だったのか。子どもに男と同じ次郎という名をつけて(しかも、子供は女の子である!)育ててきた。それは自分を棄てた男への復讐だったのか。子どもへの精神的な暴力(彼女は決して次郎に手を上げたりはしない)はなんだったのか。少女が母親に怯えながら暮らす日々は何だったのか。
中学生の息子、次郎(辻るりこ)は母親(楠見薫)と2人暮らしだ。学校で生物係をしていることがばれてからは学校にも行かせてもらえない。そんなある日、担任(山田かつろう)が、クラスメートの少女(橋爪未萌里)と、児童相談所の職員(宮都謹次)を伴ないやってくる。
冒頭の食事のシーンにはドキドキさせられる。幻の父親(アクサルの田淵法明だ!)との対話によって精神のバランスをとって生きている次郎は、母親の精神的な暴力の前で女の子であるにも関わらず男の名前をつけられて、男として暮らすことを強要されてきた。母には一切逆らえない。母が学校に行くな、というから家を出ることすらかなわない。これぞ『トバスアタマ』だ、と思った。楠見さんが凄い。彼女の鉄面皮には凍りつかされる。
だが、その後の展開はまるで初演とは違う。先に書いた先生たちや、さらには地域に住人たちがどんどん2人に関与してくる。
その癖、近所に住む男が飼う犬と、同じように近所の夫婦の妻の、身体と心が入れ替わっているというサイドストーリーにはそれ以上の発展はないし、だいたいなぜそんなことになったのかもわからないままで放りだされる。クラスメートの少女は同居するおじさんから厭らしい目で見られていると訴える。おじさんは彼女の下着を触ったり、部屋を覗いたりする、らしい。だが、当然のようにおじさん自身はそんな行為を否定する。この2つのエピソードも含めて、明確な起承転結はないまま、ドラマは宙吊りにされていく。そこに、次郎の父親らしい男による突然の暴力である。そこで芝居は唐突に終わる。あっけなさ過ぎて驚く。だが、見事な幕切れだ。
今、虐待なんて、日常茶飯事の出来事と化している現実の中で、この芝居が取り上げる恐怖は明確な敵の見えない状況の中ですべてが淡いままどんどん進行し、それすら日常に埋もれていくという事態が描かれる。これは必見の傑作である。