思い切った芝居を作るなぁ、と思った。これは棚瀬さんが南船北馬として2年振りに取り組んだ新作である。先月劇団コーロに演出として参加し、そこからたった1カ月のインターバルでの公演となる。ここまで間が詰まった連続公演というスケジュールは正直大変だったはずだ。諸事情ゆえとは云え、思い切ったことをしたな、と感心する。だが、やれるときにはやらなければ、機会は来ない。これは彼女にとって素晴らしい挑戦だったはずだ。そしてそれをやり遂げた。
コーロの『てのひらのきせき』を見たときには、ちょっと不満が残った。それは芝居全体のバランスの問題だ。棚瀬さんが妥協したとは思わないが、コーロの役者たちや、与えられた台本を自分のフィールドに強引に引き寄せない(引き寄せれない?)ことで、作品に一貫性がなくなってしまった気がした。お互いに遠慮して、本来の持ち味を損なってしまった、という印象を持った。
自分の、というよりも自分自身のフィールドの戻ってきて、ここで棚瀬さんが何をやるのか、とても興味津々だった。そして、感心させられた。こんなふうに来るとは思いもしなかった。もっと安全圏で勝負を賭けるのではないかと予想していた。なのに彼女は思い切った冒険に出た。
象徴的な空間、抽象的なドラマ。スタイリッシュな幻想劇。こんな観念的な世界を棚瀬さんが見せてくれるだなんて驚きだ。衣装も含め全体を白で統一された空間は閉ざされた密室だ。ここに4人の女たちが監禁されている。年齢も生活環境もまちまちで、一見何の関係もない女たちだ。だが、彼女たちはまるで知り合いみたいだ。ここで出会いこの同じ環境になったことで心を開いたのか。
芝居はひとりひとりのインタビューから始まる。それはビデオによる映像で語られる。敢えてこの時には彼女たちの顔は見せない。体の部位や、首から下の映像だけが提示される。4人が個々の話をする。どうしてここに閉じ込められたのかはわからない。別室から監視する男がいる。やがて、彼と女たちの関係が示される。だが、それすらも現実のものとは言い難い。
これはゲームだ。密室。監禁。逃亡。まるで『SAW ソウ』を思わせる設定だ。足は鎖で繋がれている。当然外せない。イライラは募る。ずっと体をゆすり続ける。女たちの焦燥は沸点に達する。天井にはたったひとつの小さな窓。だが、その窓は中からは外は見えないようになっている。時間もわからない。今が昼なのか夜なのか、閉じ込められてからどれだけ時間が経ったのか。椅子だけしかない空間。なんとかして逃げ出したいが、方法はない。天井は異常に低い。そして、少しずつそれが下がってきているような気がする。現実にはいくらなんでも下がったりはしていないはずだ、と思う。だが、4人は目に見えないほどだが、微かな圧迫感を感じる。少しずつ落ちてきていることを感じる。
4人の女のそれぞれの状況が明らかにされる。男との関係性が示される。それがなぜか、2人ずつセットにして描かれる。2人と男の会話が交錯する。だが、はたしてそれが現実の4人の関係性なのか、わからない。明確に示されるわけではない。それは単純な妻、愛人、会社の同僚といったどこにでもあるような記号でしかないのかもしれない。それらが絡み合って男のドラマを形作る。
棚瀬さんは、これのどこまでが現実でどこからが幻想なのかということの線引きには、まるで興味がないようだ。だから、だんだん緊張感は薄れていく。できることならずっとリアルで通してくれた方が緊迫感のあるドラマになったろうと惜しまれる。
ラストで現実に天井が落ちてくる仕掛けが用意される。さらには彼女たちが女優であり、ここが虚構であることが強調される。個人的にはこういう展開は好きではない。あくまでもリアルの地平からこのドラマをロジカルに構成して欲しかった。だが、それは今回の棚瀬さんのやり方ではない。あくまでも棚瀬さんがやろうとしたことが重要なのだ。そして、それは確実に達成された。
コーロの『てのひらのきせき』を見たときには、ちょっと不満が残った。それは芝居全体のバランスの問題だ。棚瀬さんが妥協したとは思わないが、コーロの役者たちや、与えられた台本を自分のフィールドに強引に引き寄せない(引き寄せれない?)ことで、作品に一貫性がなくなってしまった気がした。お互いに遠慮して、本来の持ち味を損なってしまった、という印象を持った。
自分の、というよりも自分自身のフィールドの戻ってきて、ここで棚瀬さんが何をやるのか、とても興味津々だった。そして、感心させられた。こんなふうに来るとは思いもしなかった。もっと安全圏で勝負を賭けるのではないかと予想していた。なのに彼女は思い切った冒険に出た。
象徴的な空間、抽象的なドラマ。スタイリッシュな幻想劇。こんな観念的な世界を棚瀬さんが見せてくれるだなんて驚きだ。衣装も含め全体を白で統一された空間は閉ざされた密室だ。ここに4人の女たちが監禁されている。年齢も生活環境もまちまちで、一見何の関係もない女たちだ。だが、彼女たちはまるで知り合いみたいだ。ここで出会いこの同じ環境になったことで心を開いたのか。
芝居はひとりひとりのインタビューから始まる。それはビデオによる映像で語られる。敢えてこの時には彼女たちの顔は見せない。体の部位や、首から下の映像だけが提示される。4人が個々の話をする。どうしてここに閉じ込められたのかはわからない。別室から監視する男がいる。やがて、彼と女たちの関係が示される。だが、それすらも現実のものとは言い難い。
これはゲームだ。密室。監禁。逃亡。まるで『SAW ソウ』を思わせる設定だ。足は鎖で繋がれている。当然外せない。イライラは募る。ずっと体をゆすり続ける。女たちの焦燥は沸点に達する。天井にはたったひとつの小さな窓。だが、その窓は中からは外は見えないようになっている。時間もわからない。今が昼なのか夜なのか、閉じ込められてからどれだけ時間が経ったのか。椅子だけしかない空間。なんとかして逃げ出したいが、方法はない。天井は異常に低い。そして、少しずつそれが下がってきているような気がする。現実にはいくらなんでも下がったりはしていないはずだ、と思う。だが、4人は目に見えないほどだが、微かな圧迫感を感じる。少しずつ落ちてきていることを感じる。
4人の女のそれぞれの状況が明らかにされる。男との関係性が示される。それがなぜか、2人ずつセットにして描かれる。2人と男の会話が交錯する。だが、はたしてそれが現実の4人の関係性なのか、わからない。明確に示されるわけではない。それは単純な妻、愛人、会社の同僚といったどこにでもあるような記号でしかないのかもしれない。それらが絡み合って男のドラマを形作る。
棚瀬さんは、これのどこまでが現実でどこからが幻想なのかということの線引きには、まるで興味がないようだ。だから、だんだん緊張感は薄れていく。できることならずっとリアルで通してくれた方が緊迫感のあるドラマになったろうと惜しまれる。
ラストで現実に天井が落ちてくる仕掛けが用意される。さらには彼女たちが女優であり、ここが虚構であることが強調される。個人的にはこういう展開は好きではない。あくまでもリアルの地平からこのドラマをロジカルに構成して欲しかった。だが、それは今回の棚瀬さんのやり方ではない。あくまでも棚瀬さんがやろうとしたことが重要なのだ。そして、それは確実に達成された。