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映画・演劇のレビュー

あの遠い日の『ベンチのある風景』への旅

2006-10-27 19:12:45 | 映画
 僕にとって高林陽一監督は、映画というものの本当の面白さを教えてくださった神さまのような存在だ。

 『本陣殺人事件』からスタートする彼の商業映画のキァリアと同時に、彼の映画を見始めた。その後、全ての映画をリアルタイムで見続け、同時に初期の個人映画もすべて追いかけた。70年代から80年代にかけて彼と、彼の盟友でもある大林宣彦は僕にとって、まさに映画そのものであったのだ。

 これは16年振りの高林監督の個人映画である。実は、見るのが怖かった。2年前の『愛あればこそ』は見れなかった。あんなに好きだったから、自分の中で過去のものになっているものを掘り起こす勇気がなかったからある。あの頃とは、もう感じ方も何もあまりに違う気がしたのだ。思い出は思い出のままがいいとおもった。しかし、今回京都で、見るということと、もう一度映画を彼がなぜ撮ろうと思ったのかが気になり足を運んだ。京都映画祭のプログラムにこの作品が組み込まれていることは、素直に嬉しい。高林映画と京都はイコールで結ばれている。18歳の冬、京都の小さな劇場でオールナイトで彼の作品を見たのが高林映画との日々の本格的なスタートだった。そこで見た『往生安楽国』との出会いが今でも忘れられない。

 新作の出来は正直言って酷かった。僕をかって興奮させた映画はこんなものではなかったはずだ。彼は年老いて駄目になった。メジャー、マイナーの問題ではない。作品自体のことだ。せめて、本質を貫いて欲しい。マイナーに甘えた映画に見えた。だから、無残なのだ。

 技術的な問題かもしれないが、役者の下手さ。あれは何なんだろう。わざとああいう芝居をさせているのか?それと、稚拙な台詞。それだけで、まずついていけない。でも、敢えてそこに目を瞑っても、それ以外のところで目を引くものはない。それでは、この映画は何なのか。

 竹薮の中に何の変哲もないベンチがひとつ置かれている。そこになぜか座り話をする人たち。その風景は象徴というにはあまりに具体的すぎるし、会話はリアリティーのかけらもなく噴飯ものだ。ストレートが悪いとは思わないがそれが本質を射抜かないのなら、そこに何の意味もない。抽象的な会話でもなく日常会話でもない。

 かって『往生安楽国』を見た時の感動は何だったのか。あの作品だって充分ストレートだったし、静かな映画なのに突然狂ったように踊り出したり、バランスを著しく欠くような作り方をしていた。しかし、10代の僕の心を深く貫いた。生きることの本質をあの魂の旅は描いていた。あれから、30年が経ち老境に達した彼の中でもう1度蘇ってきた創作意欲とは何なのか。このシンプルな中篇映画はその答えを見せてくれない。

 日常の中にあって、なぜか人が生きるということの本質を語る場所として登場するこのベンチ。40代の男、もうすぐ40になるその恋人。30代のサラリーマン。そして、まだ20代の若い男。この4人がひとりの女と出会い、このベンチで言葉を交わす。彼らの導き手として、これから老境を迎えようとする50代の女は存在する。

 このプライベートフィルムを初期の『娼婦』とかと同じような中篇映画として仕上げたのはなぜだろう。このフットワークの軽さは好感が持てる。商業映画ではないものを作ること。なのに、イメージだけで構成せずに、過剰な科白、無駄にしか見えない説明、芝居がかった科白回し、映画の世界観を壊してしまうことを平気でするのはなぜか。分からないことばかりだ。

 この映画の前に14年の沈黙を破り撮った長編劇映画はどんな作品だったのか。それが今頃になって気になる。

 メジャー映画の中でもひときわ異彩を放った彼の映画は、正直言ってなぜ撮れたのかと思うような作品ばかりだ。興行的にも成功したものは少ない。妥協しながら、それでも映画を撮り続けることに疲れたのか。彼はある日、映画を撮らなくなった。

 『魂遊び』は究極の個人映画だった。あの作品を最後に、早々と引退してしまった彼が、頼まれ仕事だった『愛あればこそ』に続いて、今度は自分の意思でもう1度初心に戻る個人映画を作ろうとしたこと。それをDV作品として撮ること。かってフイルムしかなかった時代に困難の中、8ミリ、16ミリ、そして35ミリと様々なフォルムで映画を作り続けた彼が、誰でも簡単に映画が作れるようになった今、デジタルでどんな映画を見せるのか。そこが気になった。

 映画は4章仕立て。各章は最初に女のアップから始まる。そしてナレーションが入る。「私は自分の顔を見た事がない。そして、一生見ることもなく死んでいく。人は本当の自分に会えない。」このナレーションの後、断章のようなドラマが挿入される。

 中年の男女の腐れ縁。2人は会社の同僚で20年近くずっと関係している。男には家庭があるようだ。セックスだけの関係と言うが。
 30代のしょぼくれたセールスマンは家々を訪問するが、全く成果はあげられない。ベンチでパンと牛乳の昼食を取る。
 若者はJRの駅を女に聞く。死んだ祖母の住んでいた家にもう1度行きたいからと言う。

 こう書いてみると、この映画はとても高林さんらしい筋立てをしていることに気付く。しかし、それがなぜ機能しないのか。それは、場の持つ力が感じられないからだ。ありふれたベンチという空間を敢えて設定して、そこに彼らを座らせる。そこまでは良しとしよう。しかし、その先が、ない。竹薮の前のベンチと道。それとドラマ部分の町の中の風景との関連も分からない。ベンチを異次元とはせずに、日常から地続きにするなら、町とベンチとの位置関係を明確にしなくてはなるまい。そこを曖昧にするのはなぜか。

 これは習作にすぎないのか。フリーハンドで自由気ままに映画を撮る。DVだから出来る映画作りだったのか。そして、ここからまた、映画への旅が始まるのか。それは遺書としての最期の作品となるのか。少なくとも言えることは、まだ高林さんの映画への旅を終わっていなかったのだ。そのことの確認のためにこの映画はあったのかもしれない。『悲歌』『往生安楽国』『西陣心中』に続く高林映画の頂点がきっと次回作にはあるはずだ。それを今は楽しみにしよう。





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