習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ディパーデット』

2007-01-11 23:27:07 | 映画
 2人の若者が本来の居場所とは、全く別のところに入り込み、生きていく。一方は警官なのにマフィアの一員になり、もう一方はマフイアの手下なのに警官として働く。これって『王子と乞食』みたいな話ではないか。2人は完全に入れ替え可能な存在である。

 レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンというスターが演じているので、2人の区別は明確につくけど、、あまり知らない人が見たら、この2人の顔の区別すら、つかないかもしれない。体格や髪型はよく似ている。監督のスコセッシはあえて2人のルックスを混乱させるように設定させたのかもしれない。

 自分自身を偽って、身も心も別人として、生きることを強いられた2人の男。彼らは表面的には完璧に自分を偽りながらも、その一番大事な部分は絶対に犯すことなく生きなくてはならない。ディカプリオが本来の正義を内に秘めながら悪の世界で生きていく苦しみをとてもナイーブに演じている。

 それに対して、マット・デイモンはもともといい人すぎて、設定にリアリティーを与えきれていない。しかも、警察学校に入学するところから、警察に入り、エリートとしてどんどん出世していく中で、ジャック・ニコルソンのマフィアのボスへの恩義だけから、彼に情報を流す、という設定自体が演じていく上でも、かなりの困難をもたらす。彼自身の中には悪に対する執着がない。

 これは、オリジナルの時も感じたことだが、アンデイ・ラウもいい人すぎて、彼が悪に手を染めるのは貧しさから救ってくれた恩義だけでは、映画として納得いかない。何十年もそれが続いていくところに、もう少し説得力が欲しい。

 映画自体が性善説をとっており、2人とも全く悪い奴ではない。ただ、その環境と状況から、こんなことになってしまっただけなのだ。

 映画はそこをもっときちんと描いてくれなくては、感動的なドラマにはならない。オリジナルのお話のおもしろさのみに引っ張られてしまい、この作品が描くべきことがおざなりになっている。

 原作である『インファナル・アフェア』はトニー・レオンとアンデイ・ラウのキャラクターを前面に押し出していたので、スター映画としてまず成功している。彼らの個性を重視して、ドラマを動かしていったのだ。それに対して、このスコセッシ版は、2人のハリウッドを代表するスターを使いながら、彼らを入れ替え可能なコマとして描く。このやりかたは悪くない。虫けらのような2人が、オドオドしながら、自らの正義のために、生きて、簡単に死んでいく、というむなしさを描こうとした視点はいいのだが、ストーリーのおもしろさの前で2人の痛みが中途半端にしか描けなかったのが問題なのだ。しかも、オリジナルを見ている人間にとってこのストーリーはもう新鮮味がないから、それだけでは楽しめない。リメイクする上で新しい仕掛けを作りきれてないのが惜しい。

 2人の接点をもう少し作り、2人の間に友情みたいな感情が生まれてくるというドラマが欲しい。特にラスト付近でようやく2人がお互い向き合い、それぞれの置かれた状況も理解し、その上でどう相手を出し抜いたり、共感したりするか、という部分を新たに書き足し、ドラマを作ってもよかったはずだ。そのための布石として、2人のルックスを似させたのではなかったのか。

 2人が共犯関係を作り上げ、その中から、新たな物語を紡ぎ上げた時、このドラマはどんなものに変貌を遂げるのか。そこが見たかった。さらには、タイトルにある『ディパーテット(死者)』として生きることの意味も、もっと描きこんで欲しかった。

 『タクシードライバー』から30年。マーティン・スコセッシはなんか、ものわかりのいいオヤジになってしまった。もっと彼の映画には毒が欲しい。心の内にある怒りや、腹立ちが暴走していくという図式はもう彼にはなくなったのか。『ギャング・オブ・ニューヨーク』『アビエーター』とディカプリオと組んだスコセッシは優しすぎて本来の持ち味である狂気が影を潜めてしまった気がする。

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