『キネマの憂鬱』というタイトルが舞台奥のスクリーンに出てくるのは芝居が始まって80分くらいがたったところだ。95分の芝居のほぼ終盤。芝居は4人の女の子たちの姿を追いかけ、やがては、自分のために映画を作るというところへとようやくたどりつく。それなのに、そのタイトルは『キネマの憂鬱』である。
AV女優だった自分の体験を綴った告白本の映画化をインディーズの映像作家に委ねる。ベストセラーになり、メジャーな映画会社からも引き合いが多数あるにもかかわらず、それを蹴って無名の女性監督に委ねるのだ。彼女はかって自分のメイクを担当してくれた女性である。自分もまたAVに出たいと相談に来たこともある。その時「あなたが本当にしたいと思うことをしたらいい」と話したこともある。
アイドルとその追っかけをする女子高生。このふたりの関係を描くエピソードと先に書いたAV女優とそのメイクの女性のエピソードを交錯させて、それぞれの物語をパッチワークして、ひとつの物語へと収斂していく。
これは風俗の表層をなぞっただけのはしゃいだ作品ではない。自分の世界観をきちんと提示しようとしている。押しつけの答えではなく、4人を通して、ある種の普遍へとたどりつく。ネットに溢れる情報、溢れさせる人たち。自分を発信して、たくさんの人たちに受け止めてもらいたい。不特定多数の見えない誰かから「いいね、」をもらうとうれしいか? そんなことで満たされるのか?
4人の女の子たちのお話は、インタビュアーによる視点を通して描かれる。彼が唯一の男性キャストである。ネットで日々消費されるだけの記事を書くこのライターの視点が,この芝居の立ち位置で、ラストでは彼が恋人にプロポーズするシーンで幕を閉じる。
生の舞台と映像とを駆使して、現実の虚構を提示していく。情報がネット上を飛び交い、人と人とが生身で繋がることがこんなにも少なくなったそんな時代のなかで、生身の自分がそこにいる。その姿を見てほっとする。自分たちが何をしたいのか。それを求めて、4人の女の子たちが舞台上を駆け回る。
終盤のアイドルとその追っかけをする女子高生が、やがて友だちになろうとしたときの違和感を描く部分は強烈だ。何がしたいのか、自分でもわからない。彼女とつながりたくて、追っかけをしていた。そのためのお金が必要で、そのためには援交だってした。彼女はそこまでして、何をしたかったのか。
彼女たちの問いかけに対して、真摯に向き合い、どこかにあるはずの、答えへとたどりつこうとする。映画を作ろうと、いうラストの後、(そこで終わるとわかりやすい)出来上がった映画を見たカップルが結婚を決意するラストの唐突なプロポーズのシーンがいい。
私もAVに出たいと言う彼女に「自分が本当にしたいことをして欲しい」という。それが映画製作へとつながる。もしかしたら裸を晒すことは簡単かも知れない。だけど、大切なものを消費していくことで、得られる物なんてない。AVを通して失ったものを取り戻すために何が出来るか、さらには、それを映画にすることでどこにたどりつくのか。大切なものは守らなくてはならない。それは、どうすれば可能かを、女の子たちが必死に自分らしく生きるために戦う姿を通して描く。そんな彼女たちを作、演出の鶴山聖は冷静な目で見守る。彼の分身であるインタビュアーが見せる答えをどう受け止めるか。それは確かにひとつの答えであり、そこから始まる。