『アメリカン・スナイパー』を見た翌日にこの映画を見た。たまたまである。意図してそういう選択をしたわけではない。だが、先にも書いたようにこの2本がとてもかぶっているように僕には思えた。2日連続で見た2本だから、ではなく、内容の問題なのは、明らかなのだ。(先週末の『でーれーガールズ』『ストロボ・エッジ』『幕が上がる』の3連投とはケースが違う。)
2本とも自分から進んで戦場に行く話だ。兵士と医者では立場は違うけど。正義のための戦いである、という意味では似ている。そしてそれ以上に似ているのは心を病む、という点であろう。そういうふうに言うと解りやすい。だが、こちらの映画の医師は心を病んでいたのだろうか。異論はあるだろう。だが、映画を見ながら自分から進んで野戦病院のようなそこに行き、兵士や、この戦争で負傷した民間人の治療にあたりながら、彼は荒んでいく。でも、そのことを認めたくはない。進んで明るく振る舞う。自分を鼓舞する。そうすることで心身のバランスを取る。取っていると自分を欺く。ラストだって事故ではなく、自殺行為ではないか。
2本の映画の主人公は同じように殺される。死なずに済んだ。でも、自ら進んで死にに行く。そう思えるような行為なのだ。自覚はないだろう。そんな気もない。だが、死に魅入られていた。戦場で生き残るためには、運も作用する。『アメリカン・スナイパー』の主人公は戦場では死ななかった。『風に立つライオン』の主人公は戦場で死ぬ。軍人ではなく民間人の医師なのに。
彼にとって助けるという行為は受け身だ。そこから一歩踏み出したいと望んだ。それがあの行為だ。それまでだってやっていた。今回と同じような危険を何度もくぐりぬけている。でも、今回は虫の知らせがあったのだから、避けることは十分に可能だったはずなのだ。でも、彼はそうはしなかった。
何がここまで彼を追いつめたのか。映画は答えを用意しない。そんなふうなそぶりも見せない。彼の死は不運な事故だと思う人もいるだろう。そこで泣くことも可能だ。これをお涙頂戴のヒューマン映画として誤解することは十分に可能なのだ。だが、果たしてそうか。『アメリカン・スナイパー』が英雄の話ではなかったように、この映画も、偉人伝ではない。
日本を離れて、アフリカのケニアで医療に従事する。そこで暮らす子供たちに出会い、彼らを助けたいと思う。子供たちの命だけでなく、彼らの未来を守りたいと思い、孤児院を作る。日本に恋人を残したまま、ここで暮らし、やがて、ここに骨をうずめる覚悟だ。どうしてそこまで、と思う。それは彼の正義ではなく、弱さと紙一重だ。日本に帰りたくないのは、なぜか。ここで見たものと平和な日本との落差に耐えきれない。『アメリカン・スナイパー』と同じじゃないか。
この映画の大沢たかおは『仁 JIN』の時と同じだ。巻き込まれその中で、全力を尽くすうちに、そこが自分の場所になる。それにしてもこの人は本当に医者がよく似合う。誠実さがにじみ出る。それが弱さに裏打ちされているのがいい。弱いからライオンのように吠える。
三池崇史監督は、時々こういう映画を作る。いつもの過剰な映画とは一線を画する。抑えたタッチは、その底に溢れるマグマを内蔵する。だが、それは溢れ出ることはない。まさか、爆発もしない。それは『中国の鳥人』の時もそうだった。さだまさしの歌はセンチメンタルでこの映画のハードなタッチと合わない。というか、この映画が持つそれを甘いものにする。だが、映画はそんなセンチメンタルすら包み込む。
映画の中に邪魔なもののように挿入される主人公の彼についてのインタビューはこの映画をドキュメンタリータッチの作品にするわけではない。だが、なんとも不思議な彩りを与える。距離感だ。この主人公を肯定も否定もしない。なんだったのだろう、という想いを抱かせる。それは断じて共感ではない。
2本とも自分から進んで戦場に行く話だ。兵士と医者では立場は違うけど。正義のための戦いである、という意味では似ている。そしてそれ以上に似ているのは心を病む、という点であろう。そういうふうに言うと解りやすい。だが、こちらの映画の医師は心を病んでいたのだろうか。異論はあるだろう。だが、映画を見ながら自分から進んで野戦病院のようなそこに行き、兵士や、この戦争で負傷した民間人の治療にあたりながら、彼は荒んでいく。でも、そのことを認めたくはない。進んで明るく振る舞う。自分を鼓舞する。そうすることで心身のバランスを取る。取っていると自分を欺く。ラストだって事故ではなく、自殺行為ではないか。
2本の映画の主人公は同じように殺される。死なずに済んだ。でも、自ら進んで死にに行く。そう思えるような行為なのだ。自覚はないだろう。そんな気もない。だが、死に魅入られていた。戦場で生き残るためには、運も作用する。『アメリカン・スナイパー』の主人公は戦場では死ななかった。『風に立つライオン』の主人公は戦場で死ぬ。軍人ではなく民間人の医師なのに。
彼にとって助けるという行為は受け身だ。そこから一歩踏み出したいと望んだ。それがあの行為だ。それまでだってやっていた。今回と同じような危険を何度もくぐりぬけている。でも、今回は虫の知らせがあったのだから、避けることは十分に可能だったはずなのだ。でも、彼はそうはしなかった。
何がここまで彼を追いつめたのか。映画は答えを用意しない。そんなふうなそぶりも見せない。彼の死は不運な事故だと思う人もいるだろう。そこで泣くことも可能だ。これをお涙頂戴のヒューマン映画として誤解することは十分に可能なのだ。だが、果たしてそうか。『アメリカン・スナイパー』が英雄の話ではなかったように、この映画も、偉人伝ではない。
日本を離れて、アフリカのケニアで医療に従事する。そこで暮らす子供たちに出会い、彼らを助けたいと思う。子供たちの命だけでなく、彼らの未来を守りたいと思い、孤児院を作る。日本に恋人を残したまま、ここで暮らし、やがて、ここに骨をうずめる覚悟だ。どうしてそこまで、と思う。それは彼の正義ではなく、弱さと紙一重だ。日本に帰りたくないのは、なぜか。ここで見たものと平和な日本との落差に耐えきれない。『アメリカン・スナイパー』と同じじゃないか。
この映画の大沢たかおは『仁 JIN』の時と同じだ。巻き込まれその中で、全力を尽くすうちに、そこが自分の場所になる。それにしてもこの人は本当に医者がよく似合う。誠実さがにじみ出る。それが弱さに裏打ちされているのがいい。弱いからライオンのように吠える。
三池崇史監督は、時々こういう映画を作る。いつもの過剰な映画とは一線を画する。抑えたタッチは、その底に溢れるマグマを内蔵する。だが、それは溢れ出ることはない。まさか、爆発もしない。それは『中国の鳥人』の時もそうだった。さだまさしの歌はセンチメンタルでこの映画のハードなタッチと合わない。というか、この映画が持つそれを甘いものにする。だが、映画はそんなセンチメンタルすら包み込む。
映画の中に邪魔なもののように挿入される主人公の彼についてのインタビューはこの映画をドキュメンタリータッチの作品にするわけではない。だが、なんとも不思議な彩りを与える。距離感だ。この主人公を肯定も否定もしない。なんだったのだろう、という想いを抱かせる。それは断じて共感ではない。