タイトルの「由宇子」を書くために、「自由」、「宇宙」と打ち込んで消していった。この名前にはこのふたつの熟語がふさわしい。これは彼女の自由な宇宙のお話だ。でもまるで自由じゃないし、その宇宙は窮屈だ。ままならないことばかりで、ずっと表情は不機嫌なまま。あきらめているわけではないことはわかる。だけど、全く上手くはいかない。彼女はドキュメンタリーのディレクターをしている。今取り組んでいるのは、女子高生と教師の淫行と自死を扱う取材だ。死んだふたりを追い詰めた学校やマスコミを糾弾する。なぜ彼女たちは死ななくてはならなかったのか。無実の罪を問われた教師の抗議の行為としての自殺。真実はどこにあるのかを突き止める。
仕事と家庭。といっても彼女は父親と二人暮らしだ。父は小さな塾を経営している。彼女はそこで講師の手伝いもしている。そこに通う女子高生と父親が関係を持ってしまい、妊娠した。彼女はその事実を隠蔽する。ふたつの出来事(事件)を通して彼女がどういう選択を取るのかを映画は追いつめていく。
2時間33分の長尺映画なのだが、スクリーンから一瞬すら目が離せない。この極度の緊張感の持続に耐えられるか。見ていて苦しくなる。最近見る映画はなぜかこんな映画ばかりで疲労困憊させられる。だけど、凄い映画を見ているという興奮には代えられない。
でも、見ながら、辛すぎて耐えられない。どうしてここまでするのか、と問いかけてしまう。答えは聞かなくてもわかっているのだけど。自分の信念を貫くために、する。だけど、心も体もボロボロだ。しかも、父親の愚かな行為の尻拭いをする彼女はどうしようもない現状の中でも究極の選択を迫られる。真実を明るみにすることが正義であり、大切なことなのか。それによってたくさんの人たちを犠牲にしてもいいのか。気づきと、何が正しくて何が間違いなのかなんて明確な区切りをつけられない。そんなはずじゃなかったであろうに。
主人公の由宇子を演じた滝内公美は全編ほぼ同じ格好で、同じ表情のまま。それは彼女の変わらない信念を貫こうとする姿を象徴する。だけど、真実を追い詰めていたはずの彼女自身が追い詰められていく。唐突なラストシーンの暗転が示す事実をそこまで息を潜めて見守ってきた観客である我々は自分の問題として受け止めるしかない。それは重い問いかけだ。