帰る場所がある。ただそれだけでどんなに心が強くなれることだろうか。しかし、彼らは自分からそれを失おうとしている。愚かなことだ。でも、そのことに自分では気づかない。父を失い、本当はこんなにも不安なくせに、その不安を解消するために、敢えて棄てるという選択を選ぼうとしている。
母だけでなく、父もなくした。そんな主を失った家に留まり続ける次男。ここを離れて大阪で暮らす長男と、長女は、それぞれ自分の家庭を持っている。だから、この家を取り壊すという決断をする。父親の四十九日の法要のため集まった三兄姉弟。彼らのところに夜道をフラフラしていたお遍路の夫婦がやってくる。彼らは一年前火事によって住んでいた家を失った。そんな彼らは八十八か所巡りをしている。
テーブルの上のヒヤシンス。カップの下には球根から伸びた白い根が見える。アクティングエリアとなるのはこの家の居間である。その部分は階段を上って上がるように作られてある。舞台となるその部屋は、かなり高くして、そこに作られるのだ。床の下部分には、ヒヤシンスの根と同じような白い根が印象的に作られてある。芝居は、ほぼこの狭いエリアのみで綴られていく。いつものように今回もまた、暗くて重い芝居だ。だが、今回はいつも以上に解り辛い芝居になっている。
今回稲田さんは、まず「家」というものに拘った。それは象徴としてではなく、文字通り、建物としての家だ。古くてもう誰も住まなくなる場所。でも、彼らはここで生まれてここで育った。両親を失いここはもうその役目を終えてしまったかのようにも見える。しかし、果たしてそう言い切れるか。そうじゃないことは明白だ。今回はお話自体がとても象徴的で、リアルではない。家だけではなく、二人の旅人もまた象徴的な存在だ。彼らが去って行ったあとの沈黙がすべてだ。二人は家を失った後のこの家族の未来でもある。
家という、そして故郷という精神的なよりどころを失うと、人はどうなるか。ここにしっかりとあのヒヤシンスのように根を張って生きてきたという記憶すら失ってしまうはずだ。なのに、彼らはそんなことには心を留めない。
子供を巡るエピソードも象徴的だ。不妊治療の話が出てくる。子供が欲しい、という気持ちを家と絡めて描く。やがて自分が死んだあと、子供たちに受け継がれていくものは何か。母が死に、今度は父も死んだ。その事実に拘ることなく、この場所を自分たちの人生から断ち切ることを望む。自分たちが生きた記憶を留めるものとしての家。子供を産むことで(子孫を作ることで)伝わるものには拘るくせに、どうして家には固執しないのか。
今回の稲田さんは、いつも以上にストーリーを追わない。彼らの内面にも踏み込まない。心情を吐露しない。言いかけたのに、それを「何か」が押しとどめる。感情はぶつかり合わない。(それはファーストシーンに象徴されている。振り上げた拳は暗転に中に消えていく)それはもどかしい。しかし、そのもどかしさこそが今回彼女がやりたかったことだったのではないか。象徴としてのいくつものイメージの中からそれは確かに垣間見える。
この道の先には何があるのか。暗い夜道をロウソクの明かりひとつで歩き始めた遍路の夫婦と同じように、この家の四人もまた道を見失う。
母だけでなく、父もなくした。そんな主を失った家に留まり続ける次男。ここを離れて大阪で暮らす長男と、長女は、それぞれ自分の家庭を持っている。だから、この家を取り壊すという決断をする。父親の四十九日の法要のため集まった三兄姉弟。彼らのところに夜道をフラフラしていたお遍路の夫婦がやってくる。彼らは一年前火事によって住んでいた家を失った。そんな彼らは八十八か所巡りをしている。
テーブルの上のヒヤシンス。カップの下には球根から伸びた白い根が見える。アクティングエリアとなるのはこの家の居間である。その部分は階段を上って上がるように作られてある。舞台となるその部屋は、かなり高くして、そこに作られるのだ。床の下部分には、ヒヤシンスの根と同じような白い根が印象的に作られてある。芝居は、ほぼこの狭いエリアのみで綴られていく。いつものように今回もまた、暗くて重い芝居だ。だが、今回はいつも以上に解り辛い芝居になっている。
今回稲田さんは、まず「家」というものに拘った。それは象徴としてではなく、文字通り、建物としての家だ。古くてもう誰も住まなくなる場所。でも、彼らはここで生まれてここで育った。両親を失いここはもうその役目を終えてしまったかのようにも見える。しかし、果たしてそう言い切れるか。そうじゃないことは明白だ。今回はお話自体がとても象徴的で、リアルではない。家だけではなく、二人の旅人もまた象徴的な存在だ。彼らが去って行ったあとの沈黙がすべてだ。二人は家を失った後のこの家族の未来でもある。
家という、そして故郷という精神的なよりどころを失うと、人はどうなるか。ここにしっかりとあのヒヤシンスのように根を張って生きてきたという記憶すら失ってしまうはずだ。なのに、彼らはそんなことには心を留めない。
子供を巡るエピソードも象徴的だ。不妊治療の話が出てくる。子供が欲しい、という気持ちを家と絡めて描く。やがて自分が死んだあと、子供たちに受け継がれていくものは何か。母が死に、今度は父も死んだ。その事実に拘ることなく、この場所を自分たちの人生から断ち切ることを望む。自分たちが生きた記憶を留めるものとしての家。子供を産むことで(子孫を作ることで)伝わるものには拘るくせに、どうして家には固執しないのか。
今回の稲田さんは、いつも以上にストーリーを追わない。彼らの内面にも踏み込まない。心情を吐露しない。言いかけたのに、それを「何か」が押しとどめる。感情はぶつかり合わない。(それはファーストシーンに象徴されている。振り上げた拳は暗転に中に消えていく)それはもどかしい。しかし、そのもどかしさこそが今回彼女がやりたかったことだったのではないか。象徴としてのいくつものイメージの中からそれは確かに垣間見える。
この道の先には何があるのか。暗い夜道をロウソクの明かりひとつで歩き始めた遍路の夫婦と同じように、この家の四人もまた道を見失う。