市川昆監督による遺書は、なんと心優しい愛の物語であろうか。
齢90を越えてなお、第1線に立ち、現役で活躍し続ける文字通り日本映画界を代表する巨匠は、その輝かしいキャリアのたぶん最後を飾ることになってもおかしくない今回の最新作として、敢えて『犬神家の一族』を選んだ。これは、自身が30年前に作り上げたあの名作の完璧なリメイクである。
今から30年前、日本映画は瀕死の状態にあった。もう日本映画は世界から、そして何よりも日本人自身から完全に見棄てられていた。ブロックブッキングは半壊しているにも関わらず東宝、東映、松竹の3社はくだらない自社作品を供給し、劇場は閑古鳥が鳴いていた。そんな時代に角川春樹は久しく映画界から離れていた市川昆を担ぎ出してきて、この映画を作り日本映画界に挑戦状を叩き付けた。
旧態然としていた映画界に風穴を開け、以降角川映画はこの国の映画史に新しい1ページを切り拓いていく。あの時の興奮は今でも鮮明に記憶している。初日の梅田劇場は劇場には溢れんばかりの人が詰めかけ、空前絶後の大ヒットを記録した。
そして、何よりも、市川モダニズムに彩られた極彩色のミステリーは僕たちに映画ならではの魅力を教えてくれた。これが市川昆と石坂浩二のコンビによる金田一耕助シリーズのスタートである。以降、大傑作『悪魔の手毬唄』から『病院坂の首縊りの家』まで5作品が作られ、その後も市川昆はヒットメーカーとしてあらゆる映画を手がけることになる。
封切初日、この映画を見た子どもたちの中には今回のプロデューサーである市瀬隆重もいたそうだ。もちろん高校生だった僕もその一人である。期待に胸膨らましてスクリーンを見つめ、この妖しい世界に引き込まれ、金田一耕助とともに昭和22年日本の僻地を旅してきた。おどろおどろしい事件と、懐かしい風景。映画ならではの冒険に胸驚かせた。
すべての原点がここにある。この映画は日本映画史を揺るがす大イベントでもあったのだ。
あれから、30年。もう一度、市川昆が『犬神家の一族』に取り組む。なぜ今『犬神家~』なのか。全くわからなかった。過去の栄光に泥を塗ることにもなりかねないのを承知の上で、彼は軽やかにスクリーン舞い戻ってきた。しかも、60代に達した石坂浩二を再び金田一に起用するという暴挙に出た。これは大事件である。
映画について話をする前置きだけで、ここまで来てしまった。もちろんその前置きですらまだ、何も語っていない気分だ。言葉では語り尽くせない。だが、いつまでも昔話を書いてるべきでない。
2006年版『犬神家の一族』について語ろう。76年版と同じ台本を使い石坂浩二だけでなくオリジナルのキャストを随所に配して、あの名作に忠実にリメイクする。その行為に一体何の意味があるのか。そこが誰もが気にした点に違いない。あのオリジナルが不本意な作品であったとは思えない。それにもしそうなら、もっと大幅な改定を施すはずである。オリジナルに敬意を払った上で、リメイクすることに何の意味があるのか。
その答えは、もちろん映画の中にしっかり描かれてある。見終えた後、こんな事のために1本の映画を作りあげたなんて、市川昆はなんてかわいい人だろうか、と微笑まざる得なかった。
彼はとても個人的な理由でこの映画を作った。それは自分という人間が映画監督としてデビューして60年に及ぶキャリアの幕を引くための文字通り人生の遺書としての映画を作るということである。映画とともに生きた人生の最後は映画とともにありたい。しかも、生涯現役作家として、天寿を全うする。映画監督としての夢を実現するための映画だったのだ。ここには彼の映画のあらゆる要素が詰まっている。
この映画の犬神佐兵衛は死んだ後、その遺言状により犬神家の人々を翻弄していく。同じように市川昆はこの映画で僕たち映画ファンを翻弄する。30年に亘ってリアルタイムで彼の作品を見続け、さらには犬神家以前の30年の作品も追い続けた市川信者である僕たちだけでなく、初めて見る人も巻き込んで、暗闇の中で起きる事件を目撃させようとする。
これは映画なのである。そこでは、現実に人が死に、様々な出来事が起き、スクリーンの人たちを翻弄する。そして2時間14分の夢をそこに描き出す。映画は幻影であり、スクリーンという魔法。その中で悲しくも美しい愛の神話を見せる。
金田一耕助という旅人の目線で野々宮珠世の愛の物語を幾つもの殺人事件を通して描く。映画はなんとものんびりした展開を見せる。連続殺人事件が起きているのに、ここではまるで時が止まってしまったかのようである。外の世界と隔絶された場所で、閉ざされた物語として映画はしっかり自己完結している。
そういうことは、もうオリジナルが作られた時に散々語り尽くされたし、横溝映画のお約束ごとである。今は前作との比較から差異を捜し考察すべきなのだろうが、それすらあまり意味を持たないくらいにこの2本はよく似ている。もちろん細かいことや、一部のストーリー展開には違いがある。しかし、そんなことはたいしたことではない。
ただ、オリジナルより本作のほうが上映時間が短いのに、ゆったりとしたテンポになっていることは留意しておいていいだろう。音楽は同じテーマ曲を使用している。あの有名な曲をあえてそのまま使用するのは余計な事をしたくないからだ。SE等も極力抑えられ、全体的にとても今の映画とは思えないくらいにおとなしい作りとなっている。それも市川昆のねらいであろう。
うるさいばかりで、けたたましいだけのホラーとは一線を画する。才気走った描写はあえてしない。静かに淡々と犬神一族の悲劇を、珠世の佐清への秘めた愛とともに描くだけだ。
これは愛についての寓話である。父と娘たち。その娘たちの子供たちに向ける想い。誰かに構って貰いたい。愛して欲しいと願う気持ちが殺人という非日常をきっかけにして描かれていく。ここで起こる凄惨な殺しはこの映画の中だけの現実であり、僕たちはそれをひとつの象徴として見てるから、怖くないし、残酷とも思わないで、美しいものとして見れる。これは、殺人という非日常と出会う旅なのである。
ラストシーン。去っていった金田一に対して残された人たちは「あの人は天使のような人だ」と言う。石坂浩二の金田一と市川昆自身が重なって見えてくる。映画の天使、市川昆は今もまた新しい映画に向けて旅をする。
齢90を越えてなお、第1線に立ち、現役で活躍し続ける文字通り日本映画界を代表する巨匠は、その輝かしいキャリアのたぶん最後を飾ることになってもおかしくない今回の最新作として、敢えて『犬神家の一族』を選んだ。これは、自身が30年前に作り上げたあの名作の完璧なリメイクである。
今から30年前、日本映画は瀕死の状態にあった。もう日本映画は世界から、そして何よりも日本人自身から完全に見棄てられていた。ブロックブッキングは半壊しているにも関わらず東宝、東映、松竹の3社はくだらない自社作品を供給し、劇場は閑古鳥が鳴いていた。そんな時代に角川春樹は久しく映画界から離れていた市川昆を担ぎ出してきて、この映画を作り日本映画界に挑戦状を叩き付けた。
旧態然としていた映画界に風穴を開け、以降角川映画はこの国の映画史に新しい1ページを切り拓いていく。あの時の興奮は今でも鮮明に記憶している。初日の梅田劇場は劇場には溢れんばかりの人が詰めかけ、空前絶後の大ヒットを記録した。
そして、何よりも、市川モダニズムに彩られた極彩色のミステリーは僕たちに映画ならではの魅力を教えてくれた。これが市川昆と石坂浩二のコンビによる金田一耕助シリーズのスタートである。以降、大傑作『悪魔の手毬唄』から『病院坂の首縊りの家』まで5作品が作られ、その後も市川昆はヒットメーカーとしてあらゆる映画を手がけることになる。
封切初日、この映画を見た子どもたちの中には今回のプロデューサーである市瀬隆重もいたそうだ。もちろん高校生だった僕もその一人である。期待に胸膨らましてスクリーンを見つめ、この妖しい世界に引き込まれ、金田一耕助とともに昭和22年日本の僻地を旅してきた。おどろおどろしい事件と、懐かしい風景。映画ならではの冒険に胸驚かせた。
すべての原点がここにある。この映画は日本映画史を揺るがす大イベントでもあったのだ。
あれから、30年。もう一度、市川昆が『犬神家の一族』に取り組む。なぜ今『犬神家~』なのか。全くわからなかった。過去の栄光に泥を塗ることにもなりかねないのを承知の上で、彼は軽やかにスクリーン舞い戻ってきた。しかも、60代に達した石坂浩二を再び金田一に起用するという暴挙に出た。これは大事件である。
映画について話をする前置きだけで、ここまで来てしまった。もちろんその前置きですらまだ、何も語っていない気分だ。言葉では語り尽くせない。だが、いつまでも昔話を書いてるべきでない。
2006年版『犬神家の一族』について語ろう。76年版と同じ台本を使い石坂浩二だけでなくオリジナルのキャストを随所に配して、あの名作に忠実にリメイクする。その行為に一体何の意味があるのか。そこが誰もが気にした点に違いない。あのオリジナルが不本意な作品であったとは思えない。それにもしそうなら、もっと大幅な改定を施すはずである。オリジナルに敬意を払った上で、リメイクすることに何の意味があるのか。
その答えは、もちろん映画の中にしっかり描かれてある。見終えた後、こんな事のために1本の映画を作りあげたなんて、市川昆はなんてかわいい人だろうか、と微笑まざる得なかった。
彼はとても個人的な理由でこの映画を作った。それは自分という人間が映画監督としてデビューして60年に及ぶキャリアの幕を引くための文字通り人生の遺書としての映画を作るということである。映画とともに生きた人生の最後は映画とともにありたい。しかも、生涯現役作家として、天寿を全うする。映画監督としての夢を実現するための映画だったのだ。ここには彼の映画のあらゆる要素が詰まっている。
この映画の犬神佐兵衛は死んだ後、その遺言状により犬神家の人々を翻弄していく。同じように市川昆はこの映画で僕たち映画ファンを翻弄する。30年に亘ってリアルタイムで彼の作品を見続け、さらには犬神家以前の30年の作品も追い続けた市川信者である僕たちだけでなく、初めて見る人も巻き込んで、暗闇の中で起きる事件を目撃させようとする。
これは映画なのである。そこでは、現実に人が死に、様々な出来事が起き、スクリーンの人たちを翻弄する。そして2時間14分の夢をそこに描き出す。映画は幻影であり、スクリーンという魔法。その中で悲しくも美しい愛の神話を見せる。
金田一耕助という旅人の目線で野々宮珠世の愛の物語を幾つもの殺人事件を通して描く。映画はなんとものんびりした展開を見せる。連続殺人事件が起きているのに、ここではまるで時が止まってしまったかのようである。外の世界と隔絶された場所で、閉ざされた物語として映画はしっかり自己完結している。
そういうことは、もうオリジナルが作られた時に散々語り尽くされたし、横溝映画のお約束ごとである。今は前作との比較から差異を捜し考察すべきなのだろうが、それすらあまり意味を持たないくらいにこの2本はよく似ている。もちろん細かいことや、一部のストーリー展開には違いがある。しかし、そんなことはたいしたことではない。
ただ、オリジナルより本作のほうが上映時間が短いのに、ゆったりとしたテンポになっていることは留意しておいていいだろう。音楽は同じテーマ曲を使用している。あの有名な曲をあえてそのまま使用するのは余計な事をしたくないからだ。SE等も極力抑えられ、全体的にとても今の映画とは思えないくらいにおとなしい作りとなっている。それも市川昆のねらいであろう。
うるさいばかりで、けたたましいだけのホラーとは一線を画する。才気走った描写はあえてしない。静かに淡々と犬神一族の悲劇を、珠世の佐清への秘めた愛とともに描くだけだ。
これは愛についての寓話である。父と娘たち。その娘たちの子供たちに向ける想い。誰かに構って貰いたい。愛して欲しいと願う気持ちが殺人という非日常をきっかけにして描かれていく。ここで起こる凄惨な殺しはこの映画の中だけの現実であり、僕たちはそれをひとつの象徴として見てるから、怖くないし、残酷とも思わないで、美しいものとして見れる。これは、殺人という非日常と出会う旅なのである。
ラストシーン。去っていった金田一に対して残された人たちは「あの人は天使のような人だ」と言う。石坂浩二の金田一と市川昆自身が重なって見えてくる。映画の天使、市川昆は今もまた新しい映画に向けて旅をする。