満開座の芝居の中にあるアナーキーさ、ある種の熱さを、キタモトさんは抑えたタッチで見せようとする。今から18年前に初演された芝居なのだが、80年代の香りが濃厚な作品である。虐げられた人々の思いが爆発していく様は感動的だが、それを冷静な語り口で淡々と見せていくことで、芝居は流されないで、今という時間と拮抗する力を持った。独居老人たちが、権力の前で屈することなく自分たちの抵抗を見せる姿を彼らの側に寄り添って描くのではなくある種の距離感を取ることで作品が本来持つべきだったものすら見せることになった。
本作は、このアイホールの「現代演劇レトロスペクティブ」シリーズの白眉であろう。それはキタモトさんがこの作品と絶妙の距離感で望んだ結果である。作品の持つ力を生かしながら、当時の気分をただ再現するのではなく、今の作品として、再構築することが、作品自体を正しく甦らせることとなる。そのことをキタモトさんはよく知っている。
何もない、だだ、だだっ広いだけの空間(アイホールだから、これだけ広大なアクティングエリアが可能だった)に、役者たちは立つ。その結果、彼らの演じる姿を、観客も距離観を感じながら見守ることになる。装置も何もない空間にポツンと立ち、この熱い芝居を冷静に演じる。それを、観客も冷静に見る。その相互の関係性を起点にして、この作品は立ち上がる。どこにでもある権力の構造を、ただなぞるのではなく、かといって、そこに意義申しだてするのでもなく、ただ生き物の哀しみとして、静かに見せていく。今ではなくなってしまった芝居が本来持つ猥雑なエネルギーがここには確かにある。だが、それを声高に見せるのではなく、呟くように見せていく。これはまるで挽歌のような作品だ。もちろん、それはこの作品の弱さではなく、それこそがこの作品の持つ力である。
本作は、このアイホールの「現代演劇レトロスペクティブ」シリーズの白眉であろう。それはキタモトさんがこの作品と絶妙の距離感で望んだ結果である。作品の持つ力を生かしながら、当時の気分をただ再現するのではなく、今の作品として、再構築することが、作品自体を正しく甦らせることとなる。そのことをキタモトさんはよく知っている。
何もない、だだ、だだっ広いだけの空間(アイホールだから、これだけ広大なアクティングエリアが可能だった)に、役者たちは立つ。その結果、彼らの演じる姿を、観客も距離観を感じながら見守ることになる。装置も何もない空間にポツンと立ち、この熱い芝居を冷静に演じる。それを、観客も冷静に見る。その相互の関係性を起点にして、この作品は立ち上がる。どこにでもある権力の構造を、ただなぞるのではなく、かといって、そこに意義申しだてするのでもなく、ただ生き物の哀しみとして、静かに見せていく。今ではなくなってしまった芝居が本来持つ猥雑なエネルギーがここには確かにある。だが、それを声高に見せるのではなく、呟くように見せていく。これはまるで挽歌のような作品だ。もちろん、それはこの作品の弱さではなく、それこそがこの作品の持つ力である。