とても刺激的な作品だった、と思う。大体『喰う』というストレートなタイトルからして挑発的で、作品自体が全身で自己主張している。このインパクトのあるタイトルから、これはひとつひとつのシーンにも『喰う』という行為に対するある種のメッセージが前面に押し出されてくるものと思い、気負いながら構えて見ていたのだが、まるでこのタイトルでなければ、これが喰うという行為を扱った作品だなんて思いもしない。ならばこれは何なのか?
金満里さんは、もっと大きな意味、それは人間の本能といってもいい、そんなことを描こうとしたのだ。それを「喰う」というイメージに象徴させて表現する。もちろんそこに描かれるものの中心には、確かに「喰う」という行為があると定義付ける。なのに、僕たちは(というか、僕はだが)個々のシーンを強引に喰うという行為と結びつけて理解しようとした。彼女はそんな卑小な見方をあざ笑うが如く、もっと普遍的で大きなものをここに描く。
ピアノと巨大な鉄のオブジェとの競演、というのも、今回のアプローチとして興味深い。3月の韓国公演を成功させ、続いてこんなにも方向性の異なる作品に挑める。そのフットワークの軽さ、何に対しても柔軟な姿勢を崩さない。そこが態変の魅力だ。彼らの不自由な体がどうしてこんなにも自由にいろんなことを表現できるのか。そこには既成の概念に囚われない精神の自由があるからだろう。
鉄のオブジェが欲しいという金満里さんのリクエストから、この舞台美術が登場することになった。だが、これは今回の公演のために特注されたものではない。彼女が偶然見つけだしてきたものだ。塚脇淳さんの作品を見て「これが欲しい」と思い、彼に会いに行くことからこの作品との出会いが生じたらしい。これは金さんのフットワークの軽やかさの勝利だ。そこに伊藤乾さんのピアノが入る。彼によるクラシックを中心とした(たぶん)生演奏のパートと、それ以外の部分を受け持つ音響パートとの落差も心地よい。そこからどんどん世界観が広がる。
今回の抽象表現は、作品世界をどこまでも広げる。態変の役者たちはこの空間の中で不自由そうに演じる。彼らはいつものように転がり、悶え、全身で自己表現する。だが、今回はストーリーラインという拠り所を失い、彼らは今まで以上に臆病に見える。あの鉄のオブジェが、僕には巨大な鳥かごに見える。目の前にあるのは鳥かごの一部分。闇の中にその他の部分が隠れている、そんな気がした。役者たちが不自由そうに見えたのは、そんな鳥かごに囚われているからか。それなのに、そこに登場する金満里さんはほとんど動かないのに、とても自由に見えた。
彼女の示す静寂がこの作品をとても刺激的なものとした。ここにいて、静かに自己と向き合い、思索する。彼女の持つたたずまいが、この作品の突破口だ。人は生きていくために食べなくてはならない。しかし、食べるために生きるわけではない。我々はいろんなものに囚われている。籠の中で自由を奪われ生きているのかもしれない。そういう意味でこれは昨年の『自由からの逃走』の延長線上にある作品なのだろう。自由に生きるなんて不可能なことだ。生きるという行為は自由を求めることでもある。
こんなシーンがある。白いかやの中で生きる。そこから自由になる。とても不安になる。あるいは、鉄の牢獄に絡まりながら進む。外と内を行き来する。どちらが外でどちらが内か、なんてどうでもいい。ここにある鉄格子はいろんなものを制限する。いくつものシーンがそれと向き合う。圧倒的なその迫力の前で、舞台から迫ってくるものはそこに立ち向かう姿勢だ。それはピアノとそれによって奏でられる音楽という武器により、明確にされる。これはしなやかな身体による戦いなのである。「喰う」が「空」につながり、その無の極致で見えてくるもの。それがここには描かれる。
金満里さんは、もっと大きな意味、それは人間の本能といってもいい、そんなことを描こうとしたのだ。それを「喰う」というイメージに象徴させて表現する。もちろんそこに描かれるものの中心には、確かに「喰う」という行為があると定義付ける。なのに、僕たちは(というか、僕はだが)個々のシーンを強引に喰うという行為と結びつけて理解しようとした。彼女はそんな卑小な見方をあざ笑うが如く、もっと普遍的で大きなものをここに描く。
ピアノと巨大な鉄のオブジェとの競演、というのも、今回のアプローチとして興味深い。3月の韓国公演を成功させ、続いてこんなにも方向性の異なる作品に挑める。そのフットワークの軽さ、何に対しても柔軟な姿勢を崩さない。そこが態変の魅力だ。彼らの不自由な体がどうしてこんなにも自由にいろんなことを表現できるのか。そこには既成の概念に囚われない精神の自由があるからだろう。
鉄のオブジェが欲しいという金満里さんのリクエストから、この舞台美術が登場することになった。だが、これは今回の公演のために特注されたものではない。彼女が偶然見つけだしてきたものだ。塚脇淳さんの作品を見て「これが欲しい」と思い、彼に会いに行くことからこの作品との出会いが生じたらしい。これは金さんのフットワークの軽やかさの勝利だ。そこに伊藤乾さんのピアノが入る。彼によるクラシックを中心とした(たぶん)生演奏のパートと、それ以外の部分を受け持つ音響パートとの落差も心地よい。そこからどんどん世界観が広がる。
今回の抽象表現は、作品世界をどこまでも広げる。態変の役者たちはこの空間の中で不自由そうに演じる。彼らはいつものように転がり、悶え、全身で自己表現する。だが、今回はストーリーラインという拠り所を失い、彼らは今まで以上に臆病に見える。あの鉄のオブジェが、僕には巨大な鳥かごに見える。目の前にあるのは鳥かごの一部分。闇の中にその他の部分が隠れている、そんな気がした。役者たちが不自由そうに見えたのは、そんな鳥かごに囚われているからか。それなのに、そこに登場する金満里さんはほとんど動かないのに、とても自由に見えた。
彼女の示す静寂がこの作品をとても刺激的なものとした。ここにいて、静かに自己と向き合い、思索する。彼女の持つたたずまいが、この作品の突破口だ。人は生きていくために食べなくてはならない。しかし、食べるために生きるわけではない。我々はいろんなものに囚われている。籠の中で自由を奪われ生きているのかもしれない。そういう意味でこれは昨年の『自由からの逃走』の延長線上にある作品なのだろう。自由に生きるなんて不可能なことだ。生きるという行為は自由を求めることでもある。
こんなシーンがある。白いかやの中で生きる。そこから自由になる。とても不安になる。あるいは、鉄の牢獄に絡まりながら進む。外と内を行き来する。どちらが外でどちらが内か、なんてどうでもいい。ここにある鉄格子はいろんなものを制限する。いくつものシーンがそれと向き合う。圧倒的なその迫力の前で、舞台から迫ってくるものはそこに立ち向かう姿勢だ。それはピアノとそれによって奏でられる音楽という武器により、明確にされる。これはしなやかな身体による戦いなのである。「喰う」が「空」につながり、その無の極致で見えてくるもの。それがここには描かれる。