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ようやく見ることが出来た。スクリーンを見つめる2時間49分はあっという間の出来事だった。大林宜彦監督が心血注いで作り上げた執念の1作である。襟を正して見た。だから、少し疲れた。ずっと音楽が鳴りっぱなしの映画で、テンポも速いし、全編加工処理された映像は目に優しくない。だけど、見ずにはいられない。40年前に作るはずだった映画だ。それを40年の歳月を経てようやく実現させたのだから。
今でも大林さんの劇場デビュー作『HOUSEハウス』を初めて見た時の衝撃は忘れられない。まだ18歳だった。ずっと見ていたかったから、1日じゅう映画館にいた。時間も体力もあったから。地元の2番館(今は亡き住道平和座)、封切で見た。当時は梅田や難波は2本立だが、周辺の劇場は新作でも最初から3本立上映されていた。でも、『ハウス』があまりに凄すぎて2度見てしまった。(3本立なので、1日いても3回は見られなかったのだ!)
昔は入れ替えがなかったから、見たければ何度でも見られる。あんな映画は見たことがなかった。もっと見ていたかったから、後日また見に行った。それからは大林信者になった。もちろん、全ての映画を公開時に劇場で見ている。(但し、唯一『この空の花』だけDVDでしか見てないことは以前にも書いた。)
今回の作品が『HOUSEハウス』と似ていることは事前に情報が入っていたから驚かない。だが、戦争3部作とはいささか趣を異にする。先の2本以上にこの映画は、普通じゃなかった。
凄い凄いという評判を耳にし、そんなこと当然だろ、と勝手にイメージを膨らませてしまい、どんな感動が自分を襲うのか、ドキドキしていた。
映画を見る前には何も知らない白紙で見るのだが、今回ほど、情報が先に入りまくったことはない。大林さんが末期がんで、ドキュメンタリー番組を見たことや、完成が早く、公開が遅かったため、先に見た人たちの評判がどんどん耳に入ったこともある。そんなこんなで、いろんな期待や、妄想が映画を歪めてしまったかもしれない。
なんだか肩すかしだった。このおもちゃ箱のような映画を無邪気に楽しめない。それは戦争の影が背後を覆うからだ。だけど、それが先の2作ほど、ストレートではない。まずこれは10代の少年少女の物語だ。主人公の各3人の男女の恋愛映画になっている。彼らが無邪気に恋のドラマを演じている。無菌状態で恋のさや当てを繰り広げる。戦争が迫っているのにのんきな話だ、と言いたくなるなら、まだ、いいのだけど、そうはならない。彼らは切実な想いを抱いて迫り来る戦争の影に怯えている。死の病に取り憑かれた少女は血を吐く。
ブルジョア階級のお坊ちゃんお嬢ちゃんのお話で、鼻持ちならない、と思う人もきっといるだろう。自分たちの世界で閉じている。こんなにも他者の出てこない映画もめずらしい。これだけのキャストが集結しても、6人と肺病の少女の叔母の計7人で閉ざされた世界だ。クライマックスのダンスシーンがそのことを象徴する。
戦争の記憶を映画の中にちゃんと表現して伝える使命感を抱いて作られた作品であることはわかる。その時、大林さんが望んだのは、美しい世界を美しいまま見せることだ。リアルなドラマではなく、夢の中の出来事のようなあやかしの世界。現実なんかいらない。夢のような世界でその世界に酔う。不安のなかで、精一杯に生きる。夢を見ることを忘れてはならない。映画は夢の物語だ。スクリーンに映る幻影を見守る。その世界に浸りきる。まるで永遠のようにいつまでも続く物語を見守る。3時間は一瞬のことだ。作り物の世界、どこでもない場所。彼らは、ここにいるのに、ここにはいない。
僕たちは大林ワールドにどっぷり浸かる。このミニマムな世界は、大仰な反戦とか、テーマ主義のメッセージ映画には収斂されない。映画というおもちゃ箱で遊ぶこと。戦争になんかいかない。ただ、この心地よい場所でまどろんでいたい。これはそんな個人映画なのだ。僕たちはまずそこから大林さんの怒りや戦いを目にすることになる。