イコーラムホールというスペースに初めて行った。東大阪男女共同参画センター、希来里(きらり、と読む)ビルの6階にある。若江岩田の駅前に出来た住宅を中心にした巨大な複合施設だ。こんなところに、こんな背の高い建物があるって不思議な感じだ。思わず見上げてしまった。本当ならちょっと探検もしたかったけど、芝居が始まる時間も迫っていて、1階のどこにでもあるショッピングセンターをちょっと覗いただけで、劇場に入る。200席ほどの小さなホールで使い勝手もよさそうだ。以前なら、こういう施設のホールはもう少し大きな劇場を作るパターンが多かったけど、最近では、需要と供給の関係を考慮して、こじんまりとした、でも、ちゃんと利用者を考えて設備の整った空間を作るのだろう。以前ならなんでもかんでもデカければいいというお役所仕事だったが、いくらバカな役人でも、当節もうそんなことはしないようだ。
さて、今回の息吹の作品だが、なんと47年前に書かれた作品を再演する。芝居は時代を反映するものだが、そういう通説に逆行するような大胆さ。さすが、ベテラン劇団はやることのスケールが大きい。時代が変わろうとも変わらないものがある、というけど、普遍的な歴史的傑作、というよりも、これは、ささやかな小品、と呼ぶべき作品である。そういうものを取り上げて丁寧に作り上げる。ふつうない。
舞台美術はいつものことだが、かっちりしたオーソドックス、リアリズム。当節の若手劇団には出来ない(しない)仕事だ。昭和43年が舞台となる。と、いっても1968年という時代を描きたいのではない。たまたまその時に書かれた作品だから、その時代を今再現することとなるわけだ。映画のリバイバルなら、当時の風俗を再現するなんていうややこしい手続きはいらないけど、芝居はそうはいかない。しかも、風俗の再現はこの場合目的ではない。面倒なことを省くためには現代のお話として上演してもいいのだが、そうすると、描かれている内容にも手をつけなくては成立しなくなる。しかも、この作品のテーマである庶民の悲喜劇は時代と共にあるのだから、リメイクは出来ない。ならば、完全に新しく書き直すしかない。作者である東川宗彦さんは昨年亡くなられたらしい。作者に依頼できないし、だいたい高齢(生きておられても)の作者に依頼する筋ではない。
劇団が今回この作品を取り上げたのは、亡くなられた作者への追悼という一面もあるのだろう。だが、それだけではなく、今の時代に改めてこの作品を問うことの意義を感じたからだ。選挙違反を巡るある家族のドタバタ騒動は、なんだか笑える。みんながそれぞれの立場で必死になるからそれがおかしいのだ。これは社会派の告発劇ではないことなんか、一目瞭然だろう。描きたかったのは、貧しいけど、みんなが一生懸命に生きている姿だ。今の時代にはもう失なわれているそんな卓袱台を囲んだ一家団欒がここにはある。悲喜こもごもの家族の在り方。両親と4人兄弟が(20代後半の兄から、17歳の女子高生まで)織りなすどこにでもあった家族の風景がなんだか、とても、懐かしく微笑ましい。
共同炊事場で、トイレも(たぶん、というか、きっと)共同。家には水道もなく、水がめに、溜めてある水を飲用水にしている。あがり框から、すぐに居間になり、奥の部屋と二間。そこに家族6人で暮らす。父親は旋盤工。2人の兄も工場勤務。姉と妹(なんとプラズマみかんのせせらぎよし子さんが客演)彼らの生活のスケッチだけで、なんだか面白い芝居になってしまうのが、不思議だ。47年の歳月というものは偉大だ。時代が変われども、家族は変わらない、と言いたいところだが、ここに描かれるような家族はもうない。東川さんはそういうことを書きたかったわけではないけど、そういう目で、今上演されたこの作品を見てしまうこととなる。
だが、テーマはぶれない。そこに描かれるものは結局は変わらない。庶民の哀歓である。彼らは彼らなりに一生懸命生きている。そんな姿が胸を撃つ。ただ、それだけで、十分だと思った。これは劇団息吹にしか出来ない貴重な1作である。