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映画・演劇のレビュー

May『マダン劇 碧の咲く母の花』

2010-07-16 20:03:45 | 演劇
 この重い芝居をしっかり受け止めよう。今、軽いばかりの毒にも薬にもならないような芝居が巷には横行する中、これは貴重な1作である。芝居は娯楽なのだから、楽しくなくては意味がない。だが、それだけでは意味はない。

 マダン劇はみんなで楽しむものだから、客席と舞台との垣根を取っ払って一緒に時間を共有して欲しい、と金哲義さんが前説をする。マダン劇の歴史から始まっていろんなことをレクチャーしてくれる。知らないことはダメなことではない。いろんなことを知って欲しい。そしてここに描かれた出来事についても理解してほしい、というのが彼の願いだ。金さんは僕たちの知らなかった済州島の歴史も教えてくれる。芝居を楽しみながらそこにただ楽しいだけではない大切なものを伝える。そんな当然のことを軽やかに実現する。ただし今回はいつものMayの芝居とは少しタッチが違う。だが、根底に流れるものは同じだ。

 20年ぐらい前、イ・チャンホ監督の『旅人は休まない』が日本で公開されたとき、あの映画の底知れぬ暗さはいったい何なのだろうか、と思った。あの時代の韓国映画はどの作品も暗くて先の見えない不安をベースにした映画が多かった。確かあの映画の中で、海辺でマダン劇を演じるシーンがあったように記憶している。あの仮面劇は何なのか、と気になった。そんな事をなんとなく思いだした。それはこの芝居のタッチと関係している。きっと。

 90年代後半から韓国映画は明らかに変わった。やがて訪れる韓流ブームを予見するような雰囲気はそこに確かにあった。ノーテンキでおしゃれで楽しいものが主流となる。アイゴー、アイゴーと泣き崩れるオモニの姿がトレードマークだった韓国映画の時代は終わった。作り笑いの韓流スターばかりが目につくようになる。では、韓国は変わってしまったのか、というと、必ずしもそうではないはずなのだ。目に見えるもの、自分たちの見たいものばかりを見ているから、こうなることは自明の理である。現実はそんな簡単なものではない。

 そんな中、金さんの重量級の芝居は意味を持つ。いまではなくなりつつあるあの頃の韓国映画の雰囲気がここにはある。この芝居は、戦後、済州島で行われた赤狩りについて取り上げる。両親を殺され、命からがら海を渡り日本に逃げてきた主人公の母親(斉藤友恵)の物語だ。彼女が口を噤んで一切語ることの無かった祖国での出来事。そこを中心にして彼女の娘である晴美の今を描くドラマが語られる。

 晴美(木場夕子)は母が心に秘めた出来事を一切知らされることなく、朝鮮ではなくこの大阪の平野(生野ではない、ということがきちんと抑えられる)で生まれ育った。自分が朝鮮人であることの意味、母の歴史、祖国の言葉、そんないろんなことを知らされることなく、今まで生きてきた。

 生まれて初めて母の故郷である済州島を友だちと訪れる。でも、そこは自分にとって心地よい場所ではない。反対に居心地が悪い場所だ。そんなとまどいから芝居は動き出す。この芝居は、ラストで再びこの地を訪れるまでのほんのちょっとした出来事が描かれていく。

 頑なに口を閉ざすオモニの姿。この芝居が描きたかったのは、彼女のその姿だけである。ラストの木場さんの涙はひとつの理想的な幕切れであって、それが現実である必要はない。海辺で海女たちと一緒に歌い踊る。そのことですべてが浄化されるわけではない。だが、言葉ではなく体が反応する瞬間を信じよう。

 昨年の最高傑作『ボクサー』から1年。マダン劇というスタイルでしか語れないひとつの真実をささやかなドラマとして金哲義さんはここに示す。





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