棚瀬美幸さんの久々の演出作品だ。この作品に引き続き今秋、南船北馬としての公演もある。ようやく彼女が本格的に活動を再開したことがうれしい。しかも、今回は劇団コーロに呼ばれての仕事である。出来あがった作品は、いつもの彼女の芝居とは一味も二味も違う不思議なテイストのものとなった。
但し、その不思議さ、というのはこれがあまりに口当たりのいいものになっている、ということであって、この芝居自身が不思議なものだ、というわけではない。その点に関しては誤解のないように。いつもの棚瀬カラーは控えめになっている。それが僕たちファンには物足りない。だが、それはしかたのないことだろう。これはあくまでもコーロのお芝居であって、棚瀬作品である、ということそのあとにくる。当然のことだ。
感情の起伏が激しい人たちがたくさん出てくる。キャラクターが実にわかりやすい。それは台本(朝雛拓)の問題だが、演出は敢えてそこを変更しない。書かれたままを演じさせる。役者たちのオーバーアクトも抑えない。自由に演じさせている。その結果この作品のリアリティーは損なわれる。しかし、ギリギリのところで、演出が踏ん張っているから破綻は生じない。それは棚瀬さんが自分を抑えているからなのか。それとも彼女はこの自由さを重視したのか。
ストーリー自身の緩さとも相俟って、このくらいの演技の方が作品の構造上上手く機能すると踏んだのか。けっこう微妙だ。この芝居は最終的にはハートウォーミングとして成立するのだろうが、棚瀬さんがそういう世界を作るだなんてなんだか不思議だ。
登場人物の8人は寄り添うようにしてこの一夜の食卓を囲むこととなる。だが、正直言うと棚瀬さんはそういうドラマ展開を受け入れてはいない。そこが見ていて嘘くさい。台本が求めているものが、自らの資質や方向性と相容れない場合、どこに妥協点を求めるのか。だが、彼女は妥協はしない。そういうのが苦手なのだ。
彼女はこの嘘くさい集団を違和感のまま見せる。お互いがお互いを信じてなんかいない。だいたいこの一夜の邂逅をこの芝居は居心地の悪い時間としてしか見せてない。ここには優しい時間は流れない。もちろん一瞬彼らはここで出逢い言葉を交わしていく。その時彼らは家族のようにもなる。公園が居間になる。線路と公園の境に窓が出来、壁が出来たり、この空間にTVがやってきたりもする。だが、そんなものはただの幻に過ぎない。
派遣を題材にした芝居なのだが、声高に彼らの叫びを描くのではない。かと言って、優しいだけのハートウォーミングなんかではない。あくまでもこれは群像劇だ。それぞれのキャラクターがまず立つことが大事だ。そこから見えてくるものを丹念に掬いあげようとする。棚瀬さんはここでまず、人と人との出会いを第一に考えた。だから、役者たちにいつも以上の自由を与える。自分のカラーに押し込むことはしない。その分、いつもの棚瀬作品の濃密さはなくなる。だが、そのことで手にしたものは少なくはない。
但し、その不思議さ、というのはこれがあまりに口当たりのいいものになっている、ということであって、この芝居自身が不思議なものだ、というわけではない。その点に関しては誤解のないように。いつもの棚瀬カラーは控えめになっている。それが僕たちファンには物足りない。だが、それはしかたのないことだろう。これはあくまでもコーロのお芝居であって、棚瀬作品である、ということそのあとにくる。当然のことだ。
感情の起伏が激しい人たちがたくさん出てくる。キャラクターが実にわかりやすい。それは台本(朝雛拓)の問題だが、演出は敢えてそこを変更しない。書かれたままを演じさせる。役者たちのオーバーアクトも抑えない。自由に演じさせている。その結果この作品のリアリティーは損なわれる。しかし、ギリギリのところで、演出が踏ん張っているから破綻は生じない。それは棚瀬さんが自分を抑えているからなのか。それとも彼女はこの自由さを重視したのか。
ストーリー自身の緩さとも相俟って、このくらいの演技の方が作品の構造上上手く機能すると踏んだのか。けっこう微妙だ。この芝居は最終的にはハートウォーミングとして成立するのだろうが、棚瀬さんがそういう世界を作るだなんてなんだか不思議だ。
登場人物の8人は寄り添うようにしてこの一夜の食卓を囲むこととなる。だが、正直言うと棚瀬さんはそういうドラマ展開を受け入れてはいない。そこが見ていて嘘くさい。台本が求めているものが、自らの資質や方向性と相容れない場合、どこに妥協点を求めるのか。だが、彼女は妥協はしない。そういうのが苦手なのだ。
彼女はこの嘘くさい集団を違和感のまま見せる。お互いがお互いを信じてなんかいない。だいたいこの一夜の邂逅をこの芝居は居心地の悪い時間としてしか見せてない。ここには優しい時間は流れない。もちろん一瞬彼らはここで出逢い言葉を交わしていく。その時彼らは家族のようにもなる。公園が居間になる。線路と公園の境に窓が出来、壁が出来たり、この空間にTVがやってきたりもする。だが、そんなものはただの幻に過ぎない。
派遣を題材にした芝居なのだが、声高に彼らの叫びを描くのではない。かと言って、優しいだけのハートウォーミングなんかではない。あくまでもこれは群像劇だ。それぞれのキャラクターがまず立つことが大事だ。そこから見えてくるものを丹念に掬いあげようとする。棚瀬さんはここでまず、人と人との出会いを第一に考えた。だから、役者たちにいつも以上の自由を与える。自分のカラーに押し込むことはしない。その分、いつもの棚瀬作品の濃密さはなくなる。だが、そのことで手にしたものは少なくはない。