偽医者の話なのだが、本物とか、偽者とかっていったい何なんだろう、って考えさせられる。無医村にやってきて、老人たちの心の支えになり、みんなから感謝され、毎日精力的に仕事をこなす。嘘をついていることは確かだが、彼なりに全力で働いている。知識の欠如は医学書を読み、必死に勉強する。自分の持っている知識を総動員する。素人が医療行為に従事するなんて、本来なら不可能だろう。しかし、彼はそれをやり遂げる。父親が医者で、彼をずっと見てきた。しかし、自分は医者にはなれなかった。製薬会社に勤め、ずっと病院に出入りしていた。医療現場は見てきたから、医学的な知識がないわけではない。だが、そんなものには限界がある。しかも、彼には当然、医師免許はない。
この映画のリアリティーは医師免許を持っているだけで、全く医者としてはくだらない人間より、彼のように熱意を持って、本気で医療に取り組む人間のほうがずっと医者として正しいのではないか、という気分にさせられるところにある。だだ、そんな絵空事では終わらない。映画は単なるハートフル・ヒューマンドラマにはならない。『ゆれる』の西川美和監督作品である。単純な浪花節にはならないのだ。前作の冷徹なタッチは今回も健在だ。人間を見つめる視線は深くて重い。だから、当然甘い映画にもならない。
主人公の医者、伊野(笑福亭鶴瓶)が失踪する。そこから話が始まる。村中の人たちから慕われていた彼がある日、いきなり消えてなくなる。なぜ、彼はいなくなったのか。2人の刑事がその謎を追う。そこから見えてくる彼のこの村での3年半の日々が描かれていく。話は、研修医である相馬(瑛太)がやってきた2ヶ月前に遡る。
映画の後半、偽医者ということがばれてしまった後、人々が掌を返したように冷淡になってしまうシーンがやけにリアルだ。そりゃ、そうだろう。自分たちが今まで神様のように慕ってきた彼が自分たちを騙していたのだ。腹を立ててしかるべきだ。しかし、無免許とはいえ、彼はボランティアで毎日僻地まで足を運び、一軒一軒往診を繰り返してきた。そうすることで、診療所にも足を運べない老人の面倒を見てきたのだ。彼の優しさはこの村のみんなが一番よく知っている。あんなにも彼に感謝してきた、という事実は消えない。もし、何かあったなら、とか、医療ミスはなかったのか、とか、心配になる気持ちもよくわかる。だが、それだけではあるまい。
伊野が「結局は医者がいればよかったのであって、自分でなくてもよかったのだ」と自虐的な言い方をするシーンがある。彼の抱える不安は手に取るようにわかる。最初はびくびくしながら働き出した。騙すつもりではなかったはずだ。だが、医者と間違われ、ここに来てくれと頼まれ、しばらくのつもりでやってきた。少ししたら消えるはずだったのだろう。だが、あまりにここが心地よくて長居してしまっただけだ。こんな田舎の療養所とはいえ、中途半端な知識の下で医療行為に従事するのだ。人の命に関わる行為だ。よく3年半耐えた。しかも、最後の2ヶ月は研修医まで抱え込んでのことである。
映画はしばらくすると、彼が偽医者であることがわかるように作ってある。だから、いつばれるか、ドキドキする。だが、映画のポイントは、そこに生じるサスペンスを描くことにはない。映画が描くのは、棚田が広がるこののどかで美しい風景の中、老人たちばかりが残る田舎の村でのあわただしい毎日のスケッチである。忙しいけど充実してる時間。みんなから喜ばれ、感謝させる。ここには生きているという充実感がある。とても幸せな日々、それが描かれる。いつか終わりがくることはわかっている。だが、今、ここで毎日精一杯生きる。そんな伊野医師の姿を見て、研修医の相馬は自分も彼のような医者になりたいと思う。映画の終盤、スイカを持ってきて、伊野に相馬が「来春、この村にもう一度戻ってきて先生と一緒に働きたい」と語るシーンが感動的だ。「おれ、ほんとうの医者ちゃうねん」と言う鶴瓶の顔。瑛太はその言葉を誤解する。謙遜と受け止める。切ない。
ラストシーンには驚かされるが、あの終わり方は優しい。この映画がメルヘンでもあることを伝える。ただし、ただのメルヘンではない。厳しい現実を受け止めた上で、このドラマはあるのだ。そして、彼はちゃんと約束をかなえるのだ。
この映画のリアリティーは医師免許を持っているだけで、全く医者としてはくだらない人間より、彼のように熱意を持って、本気で医療に取り組む人間のほうがずっと医者として正しいのではないか、という気分にさせられるところにある。だだ、そんな絵空事では終わらない。映画は単なるハートフル・ヒューマンドラマにはならない。『ゆれる』の西川美和監督作品である。単純な浪花節にはならないのだ。前作の冷徹なタッチは今回も健在だ。人間を見つめる視線は深くて重い。だから、当然甘い映画にもならない。
主人公の医者、伊野(笑福亭鶴瓶)が失踪する。そこから話が始まる。村中の人たちから慕われていた彼がある日、いきなり消えてなくなる。なぜ、彼はいなくなったのか。2人の刑事がその謎を追う。そこから見えてくる彼のこの村での3年半の日々が描かれていく。話は、研修医である相馬(瑛太)がやってきた2ヶ月前に遡る。
映画の後半、偽医者ということがばれてしまった後、人々が掌を返したように冷淡になってしまうシーンがやけにリアルだ。そりゃ、そうだろう。自分たちが今まで神様のように慕ってきた彼が自分たちを騙していたのだ。腹を立ててしかるべきだ。しかし、無免許とはいえ、彼はボランティアで毎日僻地まで足を運び、一軒一軒往診を繰り返してきた。そうすることで、診療所にも足を運べない老人の面倒を見てきたのだ。彼の優しさはこの村のみんなが一番よく知っている。あんなにも彼に感謝してきた、という事実は消えない。もし、何かあったなら、とか、医療ミスはなかったのか、とか、心配になる気持ちもよくわかる。だが、それだけではあるまい。
伊野が「結局は医者がいればよかったのであって、自分でなくてもよかったのだ」と自虐的な言い方をするシーンがある。彼の抱える不安は手に取るようにわかる。最初はびくびくしながら働き出した。騙すつもりではなかったはずだ。だが、医者と間違われ、ここに来てくれと頼まれ、しばらくのつもりでやってきた。少ししたら消えるはずだったのだろう。だが、あまりにここが心地よくて長居してしまっただけだ。こんな田舎の療養所とはいえ、中途半端な知識の下で医療行為に従事するのだ。人の命に関わる行為だ。よく3年半耐えた。しかも、最後の2ヶ月は研修医まで抱え込んでのことである。
映画はしばらくすると、彼が偽医者であることがわかるように作ってある。だから、いつばれるか、ドキドキする。だが、映画のポイントは、そこに生じるサスペンスを描くことにはない。映画が描くのは、棚田が広がるこののどかで美しい風景の中、老人たちばかりが残る田舎の村でのあわただしい毎日のスケッチである。忙しいけど充実してる時間。みんなから喜ばれ、感謝させる。ここには生きているという充実感がある。とても幸せな日々、それが描かれる。いつか終わりがくることはわかっている。だが、今、ここで毎日精一杯生きる。そんな伊野医師の姿を見て、研修医の相馬は自分も彼のような医者になりたいと思う。映画の終盤、スイカを持ってきて、伊野に相馬が「来春、この村にもう一度戻ってきて先生と一緒に働きたい」と語るシーンが感動的だ。「おれ、ほんとうの医者ちゃうねん」と言う鶴瓶の顔。瑛太はその言葉を誤解する。謙遜と受け止める。切ない。
ラストシーンには驚かされるが、あの終わり方は優しい。この映画がメルヘンでもあることを伝える。ただし、ただのメルヘンではない。厳しい現実を受け止めた上で、このドラマはあるのだ。そして、彼はちゃんと約束をかなえるのだ。