もっと重くて静かな芝居になっているのではないか、と勝手な想像をしていた。新聞(読売)に「実生活反映 夫婦リアルに」なんて書いてあったし、岩崎さが「私戯曲」に挑むなんて書いてあると、なんだかいろんなことを期待してしまうではないか。でも、芝居が始まると、当然のことながらいつもの太陽族で、気にならないし、気にもしなく芝居に集中できた。
だが、今回見た鍵チームによるバージョンは不思議な仕上がりで、本来の太陽族らしさとは少しずれた不思議な魅力を湛えた作品になった。違和感はずっと持続する。それは主人公を演じた左比束舎箱さんの演技によるものだ。
彼の大仰な芝居は(それは演技ではなく、彼本来の持つ胡散臭さのようにも見える)芝居全体を嘘臭くする。思いのほか軽い芝居になったのも、彼のキャラクター故であろう。彼のやることなすことがすべて本気には見えない。彼の妻を演じる篠原裕紀子さんのキャラクターと呼応して、この夫婦の危うさがよく出ている。
この男には、イライラさせられるのだ。大学卒業から20有余年。普通の会社員として今日まで平凡に暮らしてきた。だが、不況でリストラされ、それに乗じてかってあきらめた演劇への情熱がよみがえる。もう一度、戯曲を書く。だが、妻はそんな夫に対して冷ややかな目を向ける。篠原さんの刺すような視線が怖い。夫は家を出て、偶然知り合った煙草屋に入り浸り、ひとり黙々とペンを執る。
40代なかばの中年男の憂鬱が彼だけでなく、周囲との関係性の中から,あぶりだされていく。芝居は閉じたものにはならない。妻を中心にして、この芝居の登場人物たちは言いたいことをどんどん吐き出す。心の中に溜めておいてもなんら解決にはならない、とばかりに。その姿勢は見てて気持ちがいい。だが、そこから解決は生まれない。
社会派、岩崎さんは僕たちが生きるこの世界がどうなっていくのかを予見するような作品を多数作りながらも、図式で世界の絵解きをすることはない。その根底にあるものは、そこに生きるひとりひとりの人間の姿だ。人はひとりでは生きていけない。他者との関係性の中に、自分がいる。そして、自分という存在は、大きな社会と否が応でも繋がる。ある種の客観性をベースにする岩崎作品の主人公は私小説の主人公のような存在にはならない。
では、今回の男はどうか。もちろん、彼もいつもと変わらない。ただ、最初にも書いたが、左比束さんの若さと軽さが、従来の太陽族の芝居と異質なものを提示する。ここに描かれる出来事にはリアリティーがない。まるで「ままごと」を見てるようだ。作られた世界の作られたドラマの中で、芝居は閉じていく。本来の意図とは別の自閉的な作品になった気がする。この違和感は決して悪くはない。だが、なんだか違う気がした。
だから、予定を変更して、夜に続いて、弦バージョンを見ることにした。だいたいこの芝居の主人公は森本研典さんと岸部孝子さんではなかったのか。まぁ、2バージョンあって、それぞれ別キャストというのは、聞いていたが、主人公は共通だと勝手に思い込んでいた。だが、思いもしない若手バージョン(もし、事前にチェックしていたなら、きっと、ベテランバージョンだけしか見なかっただろう)に戸惑い、それが結果的には思いもしない可能性との出会いに繋がった。
同じ台本、同じ演出で見せるこの2本の芝居の間には、とんでもない隔たりがある。それは芝居のレベルが違う、なんていう安易なことではない。ほんのちょっとしたタイムラグが生む異化効果。そこが岩崎さんの狙いなのだろう。見事だ。
森本さんの芝居は安心して見ていられる。彼がこの中年を演じることでこの主人公の「だらしなさ、ずるさ、誠実さ」がしっかり伝わる。だから、女たちと一緒にプチ同窓会をするシーンにリアリティーがある。ドキドキする。特に佐々木淳子さんがすばらしい。斉藤千穂という女のずるさとさびしさが森本さん演じる富田の想いとシンクロする。この2人のラブストーリーとして、芝居は実に心地よく収まる。
正直言って、この芝居は大学時代の芝居仲間である4人のアンサンブルが全体を形作るのだ。だが、若手ヴァージョン(鍵チーム)は、彼らの関係性が上手く機能しない。だから収まりの悪い芝居となる。だが、そうすることで、結果的に主人公、富田(こちらは左比束さん)を孤立させることに成功する。もしかしたら、これは最初から仕組まれたもので、計算の上でのことなのかもしれない。岩崎さんの今回の本当の冒険は、実はこの若手ヴァージョンの中にある。
心地よい弦チームをとるか、居心地の悪い鍵チームをとるか。選択は自由だ。だが、どちらの作品の中にも、岩崎さんが仕掛けた罠がある。その罠を堪能することで、現実の世界とのズレを感じてもらいたい。
だが、今回見た鍵チームによるバージョンは不思議な仕上がりで、本来の太陽族らしさとは少しずれた不思議な魅力を湛えた作品になった。違和感はずっと持続する。それは主人公を演じた左比束舎箱さんの演技によるものだ。
彼の大仰な芝居は(それは演技ではなく、彼本来の持つ胡散臭さのようにも見える)芝居全体を嘘臭くする。思いのほか軽い芝居になったのも、彼のキャラクター故であろう。彼のやることなすことがすべて本気には見えない。彼の妻を演じる篠原裕紀子さんのキャラクターと呼応して、この夫婦の危うさがよく出ている。
この男には、イライラさせられるのだ。大学卒業から20有余年。普通の会社員として今日まで平凡に暮らしてきた。だが、不況でリストラされ、それに乗じてかってあきらめた演劇への情熱がよみがえる。もう一度、戯曲を書く。だが、妻はそんな夫に対して冷ややかな目を向ける。篠原さんの刺すような視線が怖い。夫は家を出て、偶然知り合った煙草屋に入り浸り、ひとり黙々とペンを執る。
40代なかばの中年男の憂鬱が彼だけでなく、周囲との関係性の中から,あぶりだされていく。芝居は閉じたものにはならない。妻を中心にして、この芝居の登場人物たちは言いたいことをどんどん吐き出す。心の中に溜めておいてもなんら解決にはならない、とばかりに。その姿勢は見てて気持ちがいい。だが、そこから解決は生まれない。
社会派、岩崎さんは僕たちが生きるこの世界がどうなっていくのかを予見するような作品を多数作りながらも、図式で世界の絵解きをすることはない。その根底にあるものは、そこに生きるひとりひとりの人間の姿だ。人はひとりでは生きていけない。他者との関係性の中に、自分がいる。そして、自分という存在は、大きな社会と否が応でも繋がる。ある種の客観性をベースにする岩崎作品の主人公は私小説の主人公のような存在にはならない。
では、今回の男はどうか。もちろん、彼もいつもと変わらない。ただ、最初にも書いたが、左比束さんの若さと軽さが、従来の太陽族の芝居と異質なものを提示する。ここに描かれる出来事にはリアリティーがない。まるで「ままごと」を見てるようだ。作られた世界の作られたドラマの中で、芝居は閉じていく。本来の意図とは別の自閉的な作品になった気がする。この違和感は決して悪くはない。だが、なんだか違う気がした。
だから、予定を変更して、夜に続いて、弦バージョンを見ることにした。だいたいこの芝居の主人公は森本研典さんと岸部孝子さんではなかったのか。まぁ、2バージョンあって、それぞれ別キャストというのは、聞いていたが、主人公は共通だと勝手に思い込んでいた。だが、思いもしない若手バージョン(もし、事前にチェックしていたなら、きっと、ベテランバージョンだけしか見なかっただろう)に戸惑い、それが結果的には思いもしない可能性との出会いに繋がった。
同じ台本、同じ演出で見せるこの2本の芝居の間には、とんでもない隔たりがある。それは芝居のレベルが違う、なんていう安易なことではない。ほんのちょっとしたタイムラグが生む異化効果。そこが岩崎さんの狙いなのだろう。見事だ。
森本さんの芝居は安心して見ていられる。彼がこの中年を演じることでこの主人公の「だらしなさ、ずるさ、誠実さ」がしっかり伝わる。だから、女たちと一緒にプチ同窓会をするシーンにリアリティーがある。ドキドキする。特に佐々木淳子さんがすばらしい。斉藤千穂という女のずるさとさびしさが森本さん演じる富田の想いとシンクロする。この2人のラブストーリーとして、芝居は実に心地よく収まる。
正直言って、この芝居は大学時代の芝居仲間である4人のアンサンブルが全体を形作るのだ。だが、若手ヴァージョン(鍵チーム)は、彼らの関係性が上手く機能しない。だから収まりの悪い芝居となる。だが、そうすることで、結果的に主人公、富田(こちらは左比束さん)を孤立させることに成功する。もしかしたら、これは最初から仕組まれたもので、計算の上でのことなのかもしれない。岩崎さんの今回の本当の冒険は、実はこの若手ヴァージョンの中にある。
心地よい弦チームをとるか、居心地の悪い鍵チームをとるか。選択は自由だ。だが、どちらの作品の中にも、岩崎さんが仕掛けた罠がある。その罠を堪能することで、現実の世界とのズレを感じてもらいたい。