この内容なのに、これは決して甘い内容ではない。もちろん、コメディーというわけでもない。この設定なら、ジム・キャリーあたりを主演に据えてコメディーとして処理したなら、いいのだが絶対しない。(だいたい最近ではジム・キャリーも安直なコメディーには出ないが)
主役はとっても地味なウイル・フェレル。(『プロデューサーズ』や『奥さまは魔女』の人だ)彼には華がないから、、こういうどこにもいそうな男の役がうまく嵌った。こういう荒唐無稽な設定にリアルを感じさせたのは彼のキャラクターゆえである。こんなに嘘臭い話(というか、ありえん話だ)なのに、彼がやるから嘘臭くない。それどころか、マギー・ギレンホールのような綺麗な女の人が、彼みたいな男に惚れてしまうという、これまたありえない話に説得力を持たせてしまう。キャスティングの勝利だ。
さらには、脇を固める2人がしっかりこの話を支えてくれる。名優ダスティン・ホフマンとエマ・トンプソンを持ってきたのは知名度のためではない。彼らがシリアスに演じることで映画が生きてくるのだ。
決して軽くはならず、映画は彼の行動をじっくり描いていくから、途中ちょっと退屈する部分もあるが、マーク・フォスター監督は全く気にしない。これは「一つの真実の話だ」という姿勢は崩さない。
もちろんこんな話にリアリティーなんてあるわけが無い。しかし、マーク・フォスターはこの話をリアルなものとして、見せきろうとしている。ラストのハッピーエンドも決して安直ではない。人生と同じくらいに小説も重い、ということをしっかり描いてくれるから、これは信用のできる映画となった。ラストの小説の書き換えも簡単にはさせないのはいい。
独身で、他人に対して全く関心がなかった国税庁のエリート官僚が、ある日、天の声を聞く。なぜかその声は自分の行動を説明してくれる。今自分のしてること、考えていることが、知らない女性の声によって、語られる。最初は空耳だと思ったが、あまりにはっきりした声で、しかも、的確に自分の気持ちまでもが語られていく。そして、ある日、その声が「彼は、もうすぐ死んでしまう」と告げる。
このバカバカしい話を、コミカルにはせず見せていくのである。しかも、その声の主が小説家で、彼はその作家が今書いている小説の主人公そのものだった、というのだ。スランプに陥った作家は、この新作で起死回生を図る。彼女は破滅型の作家で、その小説の主人公は必ず最後に死ぬ。彼女が主人公を殺せば彼も死ぬことになる。さて、主人公、ハロルドは、現実世界でその作家に出会い、ラストシーンを書き換えさせることができるのか。(先にこの映画は、ハッピーエンドだ、と書いたが何をハッピーエンドだと解釈するかはわからないから、最後まで楽しんでね。)
『ストレンジャー・ザン・フィクション』という原題の方が、ずっとこの映画の姿勢を上手く象徴するが、敢えて邦題は『主人公は僕だった』というわかりやすさを選択した。セールスとしてはこのほうが上手いが、これではオリジナルのさりげなさを殺いでいる。
主役はとっても地味なウイル・フェレル。(『プロデューサーズ』や『奥さまは魔女』の人だ)彼には華がないから、、こういうどこにもいそうな男の役がうまく嵌った。こういう荒唐無稽な設定にリアルを感じさせたのは彼のキャラクターゆえである。こんなに嘘臭い話(というか、ありえん話だ)なのに、彼がやるから嘘臭くない。それどころか、マギー・ギレンホールのような綺麗な女の人が、彼みたいな男に惚れてしまうという、これまたありえない話に説得力を持たせてしまう。キャスティングの勝利だ。
さらには、脇を固める2人がしっかりこの話を支えてくれる。名優ダスティン・ホフマンとエマ・トンプソンを持ってきたのは知名度のためではない。彼らがシリアスに演じることで映画が生きてくるのだ。
決して軽くはならず、映画は彼の行動をじっくり描いていくから、途中ちょっと退屈する部分もあるが、マーク・フォスター監督は全く気にしない。これは「一つの真実の話だ」という姿勢は崩さない。
もちろんこんな話にリアリティーなんてあるわけが無い。しかし、マーク・フォスターはこの話をリアルなものとして、見せきろうとしている。ラストのハッピーエンドも決して安直ではない。人生と同じくらいに小説も重い、ということをしっかり描いてくれるから、これは信用のできる映画となった。ラストの小説の書き換えも簡単にはさせないのはいい。
独身で、他人に対して全く関心がなかった国税庁のエリート官僚が、ある日、天の声を聞く。なぜかその声は自分の行動を説明してくれる。今自分のしてること、考えていることが、知らない女性の声によって、語られる。最初は空耳だと思ったが、あまりにはっきりした声で、しかも、的確に自分の気持ちまでもが語られていく。そして、ある日、その声が「彼は、もうすぐ死んでしまう」と告げる。
このバカバカしい話を、コミカルにはせず見せていくのである。しかも、その声の主が小説家で、彼はその作家が今書いている小説の主人公そのものだった、というのだ。スランプに陥った作家は、この新作で起死回生を図る。彼女は破滅型の作家で、その小説の主人公は必ず最後に死ぬ。彼女が主人公を殺せば彼も死ぬことになる。さて、主人公、ハロルドは、現実世界でその作家に出会い、ラストシーンを書き換えさせることができるのか。(先にこの映画は、ハッピーエンドだ、と書いたが何をハッピーエンドだと解釈するかはわからないから、最後まで楽しんでね。)
『ストレンジャー・ザン・フィクション』という原題の方が、ずっとこの映画の姿勢を上手く象徴するが、敢えて邦題は『主人公は僕だった』というわかりやすさを選択した。セールスとしてはこのほうが上手いが、これではオリジナルのさりげなさを殺いでいる。