とても不思議な芝居だ。普段見る小劇場の芝居とは微妙に違う。いきなり歌い出してしまうことやら、ストーリーが、とてもわかりにくく、それは作品自体が難解だということではなく、作者がドラマをきちんと整理できていないだけのことなのだが、当然その結果、この芝居自体の曖昧さを、作品の力にしきれてはいない。作者のねらいが、一人よがりの域を出ないから、観客の側に伝わりきらないのである。
こういう作品はストーリー云々ではなく、場の持つ「空気のようなもの」をいかに捉えるか、ということが大切だ。そのためには、まず芝居の舞台となるこの部屋を徹底的に作りこまなくては、その雰囲気は描けない。なのに美術には全く手を入れない。このアパートの一室が視覚的にも、台本上にも語られない。ロケーションが伝わらないからこの世界は見えてこない。
この部屋には何かが棲みついているということだけが描かれ、それが3人の幽霊として描かれる。これでは最初からぶち壊しである。怪奇現象とは目に見えないところから始まり、徐々に核心に至っていく中で明確化する、という段階を追って描かれるべきなのだ。なのに、そのへんを最初からおざなりに描くのはどうだろうか、と思う。
さらには、ストーリー自体の方も、主人公のレイコ(小さか理恵)と、この部屋の住人である塩沢(木村恭子)との関係性が明確に見えてこないので、どこを拠りどころにして、この芝居を見ればよいやら、よくわからない。女同士の友情と恋愛のあわいに横たわる微妙な空気が描ききれていない。さらには、塩沢の中に秘められた暴力への衝動。それが、この場にやってくる人たちへと伝播していき、レイコを殺したのは誰だったのか、というサスペンスへと繋がって行く、はずだったのだ。
作品自体のアウトラインはとても面白いし、「ここにいるのに、ここにはいない」というテーマも悪くない。ただ、それをどう見せるか、という一番大事な部分があまりに杜撰で、芝居には全く緊張感が伴わないから、たった70分の芝居なのに眠くなってしまう。
芥川の『藪の中』のような事実に対する証言者たちの食い違いから真実に迫るというスタイルを取りながら、その奥にあるそれぞれの感情の底が描けてないから芝居は空虚なものになる。タイトルの『けっかい』をひらがな表記にしてしまう曖昧さが、作品の方向性の緩さにつながっている。「決壊」でも「血塊」でも「結界」でも構わないが、この場合ははっきりと『決壊』という作品の方向性が見えてくるタイトルを示しておくべきだった。それぐらいの覚悟は芝居には欲しい。
こういう作品はストーリー云々ではなく、場の持つ「空気のようなもの」をいかに捉えるか、ということが大切だ。そのためには、まず芝居の舞台となるこの部屋を徹底的に作りこまなくては、その雰囲気は描けない。なのに美術には全く手を入れない。このアパートの一室が視覚的にも、台本上にも語られない。ロケーションが伝わらないからこの世界は見えてこない。
この部屋には何かが棲みついているということだけが描かれ、それが3人の幽霊として描かれる。これでは最初からぶち壊しである。怪奇現象とは目に見えないところから始まり、徐々に核心に至っていく中で明確化する、という段階を追って描かれるべきなのだ。なのに、そのへんを最初からおざなりに描くのはどうだろうか、と思う。
さらには、ストーリー自体の方も、主人公のレイコ(小さか理恵)と、この部屋の住人である塩沢(木村恭子)との関係性が明確に見えてこないので、どこを拠りどころにして、この芝居を見ればよいやら、よくわからない。女同士の友情と恋愛のあわいに横たわる微妙な空気が描ききれていない。さらには、塩沢の中に秘められた暴力への衝動。それが、この場にやってくる人たちへと伝播していき、レイコを殺したのは誰だったのか、というサスペンスへと繋がって行く、はずだったのだ。
作品自体のアウトラインはとても面白いし、「ここにいるのに、ここにはいない」というテーマも悪くない。ただ、それをどう見せるか、という一番大事な部分があまりに杜撰で、芝居には全く緊張感が伴わないから、たった70分の芝居なのに眠くなってしまう。
芥川の『藪の中』のような事実に対する証言者たちの食い違いから真実に迫るというスタイルを取りながら、その奥にあるそれぞれの感情の底が描けてないから芝居は空虚なものになる。タイトルの『けっかい』をひらがな表記にしてしまう曖昧さが、作品の方向性の緩さにつながっている。「決壊」でも「血塊」でも「結界」でも構わないが、この場合ははっきりと『決壊』という作品の方向性が見えてくるタイトルを示しておくべきだった。それぐらいの覚悟は芝居には欲しい。