あの横山さんが小説を書いた。それだけで最大限の期待が高まる。でも、読んだ後、これはそのレベルではないな、と思う。今年読んだすべての小説の中でこれがベストワンだ。それくらいに素晴らしかった。彼の芝居は大学の頃の売込隊ビーム『トバスアタマ』からほぼすべて見てきた。iakuになってからの公演はもちろん(ほぼ)すべて見てきた。(今年の夏は孫の子守のため東京に行っていて見れなかったけど。でも初演は見ているし)彼の力量は十分知っているつもりだった。だが、小説家としてこれだけの作品をデビュー作から書けるなんて、うれしい驚きだ。原作はiakuの舞台である『粛々と運針』なのだが、オリジナルをもとにして、ここまでまるで印象の異なる小説に仕立てた。横山さんは芝居と小説は違うということをちゃんと理解しているから、それぞれにとって最高の選択をしている。どちらも素晴らしい作品だ。
彼の書くこの小説のタッチは軽い。彼はこんな重い話でもこんなにも軽やかに書ける。でも、それは甘いとか、安易とかいうのとはまるで違う。重厚なタッチがいい小説だというのではないだろう。重くなりそうなお話を誠実に綴ると気が付くとこんなふうに語ることができた、という感じなのだ。
こんな深刻な話になるとは、思いもしなかったのに、まさかの展開に彼ら自身が驚いている。主人公である息子は母親のことを語るとき、「お母さん」と言う。読んでいて最初、さすがに少し違和感がある。普通ならそこは「母」と語るところだろう。会話文の中でお母さんと呼ぶのはわかるけど、全編「お母さん」で通す。もちろん、それが意図的であることはわかるし、終盤で説明となる記述がちゃんとある。弟が「おふくろ」から「お母さん」と言い方を変えるところだ。やはりそうだったのか、と安心する。弟が、ではなく兄がどんなスタンスで母と向き合っていたのか、が明確になる。39歳になって結婚してもう10年になる大人が常に母親を「お母さん」と呼ぶ。マザコンだから、というのではない。彼の中で母と自分の間には今でも距離がないのだ。だから子供の頃と同じで今も母は母ではなく「お母さん」なのである。無意識にまだ彼女に甘えているのかもしれない。大人になり結婚もし、独立してふだんは母親のことなんかあまり考えない。彼女が彼の仕事場であるファミレス(店長をしている)に毎週のようにやってくるのを疎ましく思っていた。でも、それにも甘えていたのかもしれない。
母が倒れて入院し、延命治療を拒否した。ありえない話だ。腎臓にのう胞が見つかり、手術した。人工透析で命は助かる。なのに本人はそれを拒否した。なんと尊厳死を望むというのだ。まだ70歳である。病院に行くとそこで知らない男がいる。母の友人だという。金沢さんというその老人は母の恋人なのか。父親が死んでから6年。さらには妻が妊娠したかもしれないという。彼女は子供を望まない。いきなりありえないような出来事ばかりが彼に押し寄せる。
短期間のできごと。いきなりのこと。でも、そんなものかもしれない。僕も同じだった。昨年6月、母を亡くした時もそうだった。1月に母が倒れた日、いつものように仕事の前に実家に寄り食事をさせてから仕事に行った。いつも通りの1日の始まり。「行ってらっしゃい」と彼女は手を振っていた。その日の午後、デイサービスから連絡が入り、慌てて病院に駆けつけた。救急車で緊急搬送され、初期対応の遅れと医者の判断ミス(医者は認めないけど)で、そのまま寝たきりの状態になった。でも、きっと回復すると信じた。病状が落ち着いて別の病院に移されることになった3月の終わり、あのとき初めて一緒になった。それまではコロナのため一切面会不可だったからだ。そして倒れた日から5カ月。「すぐに来てください」と病院から電話が入ったときには、もう遅かったのだろう。全力で走ったが、間に合わなかった。肺炎を引き起こしていきなりの死だったらしい。でも「前日まで何の連絡もなかったじゃないか」と思った。せめて何らかの知らせくらいあってもいいんじゃないか、とも。詮ない話だが。自分の話はどうでもいいのだけど、この小説の内容が自分の体験と重なるところが多くてついつい。
でも、こんな内容なのに、この小説は最初にも書いたようにさらりとそれが描かれてある。そして、この距離感がすばらしい。母親の話なのだけど、その母親を失くす息子の話なのだけど、兄弟の話であり、その二組の夫婦の話でもあり、さらには母親自身の人生の選択の話でもある。小さな話なのに、その描く世界は限りなく広い。兄と弟。妻と自分。母親。「お母さん」の選択が子供たちに伝えること。ラストの手紙が泣ける。
交互に描かれる章立ての偶数章の短い文章が意味することも終盤でちゃんと謎解きされる。それはまさかの弟の妻の話だった。登場人物はなんとたった6人だけ。でも、その6人が見せてくれる世界はこんなにも広くて清々しい。これは「わがままな選択」ではなく、素敵な最高の選択なのだとわかる。ラストは冒頭の喫茶店でのエピソードでまとめるのもうまい。最初からすべて伏線が張られていてちゃんとそれを回収する。930円コーヒーの主人がラストで出てこないのもいい。二組の夫婦、彼らの母親とその恋人。できるだけお話はそれだけに収める。潔い。デビュー作だけどこの小説に芥川賞なんかではなく、直木賞をあげたい。