習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ラブリーボーン』

2010-01-20 22:11:14 | 映画
 スピルバーグとピーター・ジャクソンがタッグを組むと一体どんな映画になるのか、ドキドキしながら見たのだが、なんだか締りのない超大作で、少しがっかりした。いつものことだが、スピルバーグとコンビを組むとその監督の持つ個性が生きない。

 何度も見せられた予告編は、どんな話なのかはよくわかるのだが、まるで映画自体の展開が読めない感じで、そういう意味でも興味深いものだった。だが、出来あがった映画は、思い付きの域を出ない話で、死んでしまった14歳の少女のお話と、残された家族の話が上手くリンクしない。しかも、犯人逮捕を巡るサスペンスとしてもあまりうまくは出来てないから、この映画に何を求めればいいのか。この3つが相乗効果を持って怒濤の展開を見せなくては意味がない。なのに「彼女が天国に行ってからのお話」(映画の中ではここは天国なんかじゃない、と言ってたが)がつまらなさすぎる。それをフォローするための陳腐な特撮(もちろんCGです)は丹波哲郎大先生の『大霊界』並みの世界で、噴飯ものだ。あれでは美しい映像世界とは言えまい。その安っぽく貧困なイメージにがっかりする。

 せめて犯人の変態ぶりと、彼をいかに追い込んでいくのかで、話を引っ張ってくれたならいいのだが、こちらの描写も実にとろくさい。崩壊していく家族の再生までを描くスピルバーグ的世界を描く部分がせめてもの救いだ。犯人探しにとりつかれていく父(マーク・ウォールバーグ)と、心を壊していく母(レイチェル・ワイズ)がいい。そして、アル中で、とんでもない行為をする祖母(なんと、スーザン・サランドン)のぶっ飛び方は映画のアクセントにはなったがそれだけ。

 健全なピーター・ジャクサンではなく、『乙女の祈り』の頃の歪な彼が戻ってくるかと期待した僕が間違いだった。この異常な設定の物語を温かいハートウォーミングに仕立てるなんてことは不可能である。そんなことをしても面白い映画にはなるまい。ならば、映画のバランスなんか無視して、考えられないような無茶苦茶さでこの破天荒な世界を作るべきだった。ピーター・ジャクソンなら出来たはずだ。なのになんだかお上品で、当たり障りのないファミリー・ピクチャーにしてお茶を濁すのってどうだろうか。

 主人公の少女が死ぬまでのところは結構面白いだけに、本題に入っていきなりの腰砕けには参った。だいたいこの映画の「売り」(キャッチコピー)は、『これは、私(彼女)が天国に行ってから(死んでから)のお話』ではなかったのか。なのに、そこからがつまらないのでは、お話にもならない。だいたい、生まれてきて、やりたいことをまだ何もしてないのに、死んでしまった少女の、その無念と、彼女の抱える痛み、それをしっかり描かなくては何も始まらないではないか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 吉田修一『キャンセルされた... | トップ | 楊逸『すき・やき』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。