中島哲也監督の過激な新作。冒頭からラストまでどこまで行くのか、というくらいに激しい。行方不明になった最愛の娘の救出のためになりふり構わない主人公の姿を描くという意味では、『ブリズナーズ』に似ているけど、あの映画の比ではない。もちろん、あの映画のヒュー・ジャックマンも凄まじかったけど、あれはあくまでもリアリズムからスタートしたのに対して、この映画の役所広司は最初から一貫して常軌を逸している。ヤク中で、警察も辞めて、家族には愛想尽かされ自暴自棄な生き方をしている。普通じゃないのだ。そんな男が娘の失踪を知り、その消息を追う姿を、映画はどこまでも追いかけていく。
その行動はめちゃくちゃである。暴力の連鎖で描くのだが、凄まじいのは実は彼ではなく、娘のほうで、彼女の知られざる姿がどんどん浮き彫りにされていくこととなる。やがて「愛する娘はバケモノでした」というコピー通りの展開を見せていくことになる。だが、いつまでたっても、彼女は姿を現さない。回想で姿を見せるばかりだ。だがそこでの娘の意外な姿の集積が、父親の知らない15歳の娘の実態が、やがては映画を大きくリードしていくことになる。役所のインパクトを大きく凌ぐ。
どうして彼女はそんな存在に変貌したのか。彼女の中で何があったのか。そこが映画の眼目となる、というのなら、それもまた、よくあるパターンなのだが、この映画はそうはしない。彼女なんか、まるで描かれないのだ。映画は彼女を最初から最後まで外側の存在として描く。彼女の孤独な内面に迫るわけではない。それは主人公である父親のほうに対しても同じ。役所広司の内面も描かれない。その破天荒な行為ばかりが描かれる。彼をみつめて追いかけていく後輩の刑事、妻夫木聡の視点も同じだ。あくまでも傍観者でしかない。いつも薄ら笑いを浮かべてチュッパチャプスを舐めているだけ。こんな刑事がいたら怖い。
エスカレートする暴力はとどまることを知らない。肥大化する娘のイメージがさらに加速する。彼女をめぐる現実もとどまることを知らない。何が彼女にあったのか。いじめ、友人の自殺、やがて、歯止めが効かなくなるように、ドラッグ、暴力、セックスへと。空洞の彼女の存在。
やがて、訪れるクライマックスは、もう収集のつかない地獄絵図だ。笑うしかない。これはコメディーなのか。そんなわけはない。中島哲也監督は静かなタッチで恐るべき暴力を『告白』で描いた後、今回、加速する過剰な暴力をどこまでも過激に見せることに終始する。で、それがどうなのか? よく、わからない。ただひたすら不快なだけ。でも、そこから目が離せない。
その行動はめちゃくちゃである。暴力の連鎖で描くのだが、凄まじいのは実は彼ではなく、娘のほうで、彼女の知られざる姿がどんどん浮き彫りにされていくこととなる。やがて「愛する娘はバケモノでした」というコピー通りの展開を見せていくことになる。だが、いつまでたっても、彼女は姿を現さない。回想で姿を見せるばかりだ。だがそこでの娘の意外な姿の集積が、父親の知らない15歳の娘の実態が、やがては映画を大きくリードしていくことになる。役所のインパクトを大きく凌ぐ。
どうして彼女はそんな存在に変貌したのか。彼女の中で何があったのか。そこが映画の眼目となる、というのなら、それもまた、よくあるパターンなのだが、この映画はそうはしない。彼女なんか、まるで描かれないのだ。映画は彼女を最初から最後まで外側の存在として描く。彼女の孤独な内面に迫るわけではない。それは主人公である父親のほうに対しても同じ。役所広司の内面も描かれない。その破天荒な行為ばかりが描かれる。彼をみつめて追いかけていく後輩の刑事、妻夫木聡の視点も同じだ。あくまでも傍観者でしかない。いつも薄ら笑いを浮かべてチュッパチャプスを舐めているだけ。こんな刑事がいたら怖い。
エスカレートする暴力はとどまることを知らない。肥大化する娘のイメージがさらに加速する。彼女をめぐる現実もとどまることを知らない。何が彼女にあったのか。いじめ、友人の自殺、やがて、歯止めが効かなくなるように、ドラッグ、暴力、セックスへと。空洞の彼女の存在。
やがて、訪れるクライマックスは、もう収集のつかない地獄絵図だ。笑うしかない。これはコメディーなのか。そんなわけはない。中島哲也監督は静かなタッチで恐るべき暴力を『告白』で描いた後、今回、加速する過剰な暴力をどこまでも過激に見せることに終始する。で、それがどうなのか? よく、わからない。ただひたすら不快なだけ。でも、そこから目が離せない。