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映画・演劇のレビュー

桃園会『私は家族』

2019-09-19 21:37:35 | その他

 

このシンプルなタイトル、でも、なんだかよくわからないタイトルでもある。この作品の抱える混沌を見事に象徴する。これは一歩間違えば、観念的で独りよがりな作品になりかねない。だが、作、演出の橋本建司そうはさせない。わからないものを無理にわからせようとするのではなく、わからないまま、ちゃんと提示した。だから、その誠実さと向き合うことで、わからなさが作品自体の魅力にすらなる。上から目線の作品ではなく、同じ目の高さ、いや、作者は観客である僕たちよりももっと低い所からこの物語を見ている。私自身が家族だ、という開き直りは、ここに描かれる全てを受け止めようとする姿勢だ。傍観者でもある「わたし」(はやもとようこ)の目線からすべてを見つめる。彼女自身は認知症で自分が何を見ているのかもよく理解してはいない。そんな彼女を導くのは、まだ生まれてはいない「きみちゃん」(加納亮子)だ。彼女たちが見守る夫妻のやがて生まれてくる子どもである。

 

白い大きなベッドが舞台の中央に配置される。そこで横たわる妻(大江雅子)。介護する夫(小坂浩之)。妻が祖母(森川万里)に変わる.夫は同じように介護する。毎日毎日のくりかえし。食べて寝て、食べて寝て。生まれるということ。やがて死んでくということ。それが等価で提示される。妻と祖母が重なり、そして、やがて生まれてくることになる「きみちゃん」と「わたし」はそんな家族を見守る。この図式がなんだか心地よい。で、気になるのは「わたし」って誰なのか? っていうことなのだが、見ながらもうそんなことどうでもいいや、とも思えてくる。最初、彼女は死んでしまった妻(あるいは、夫の)母親なのだろう、と思って見ていた。だけど、問題はそういうことではない、と気づく。「わたし」は眠るようにしてこの劇(この夫婦の姿)を見る。時たま、はたもとさんは舞台で目を閉じて寝ている。(わけではないだろうけど)

 

もっと間延びしてもいい。時間を引き延ばすようにして、意味を成さない光景がそこに綴られていく。ストーリーはなく、観念的な話なのに、つまらなくはない。いや、この家族の風景に引き込まれる。劇中劇の韓流ドラマのワンシーン(今更、冬ソナとか)とか、笑わせるシーンも挟まれるけど、すべてが夢のようだ。ベッドの中で夢を見るシーンもある。夢を話す自分たちが旅をする。ささやかな旅だ。海遊館に行く。

 

みつめているはずなのに、いつの間にか寝ている。とか、幻のように、スライドしていく。妻が祖母になり、幻の風景が立ち現れる。きみちゃんが生まれてくる2019年から今までを遡る。生まれた日まで。その先に戻る。そこには誰も居ない、のか。そして、それって誰が生まれた日? 

 

この作品は、こころネットKANSAIコラボレーション企画の第3弾である。1作目は「摂食障害」、2作目は「アルコール依存症」、そして、今回は「家族」。ひとつのテーマを設定して、それぞれの作家たちに自由に作ってもらうというのが、この企画の意図だ。ただ、今回のテーマはあまりに漠然としていて、何をどう切りとるのか、難しかったのではないか。それを橋本建司は、「じゃぁ、曖昧なままでいいじゃないか」と開き直って(というわけではないけど)よくわからないもの、として描こうとした(のか)。

 

生まれてくる子ども、死んでいく老人。介護しながら、「死んでくれたらいいのに」とつぶやく。そんな一瞬もある。いろんなことを想像させながら、まどろむような時間が過ぎていく。


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