なんて優しい世界だろうか。阪神淡路大震災で被災した男が見る夢が描かれる。あの日の夜。ひとりで過ごす時間。死んでしまったものたちが、彼のもとを訪れる。そこでともに過ごす時間が描かれる。3話からなる連作だが、お話は続いているから1本の長編作品として理解してもかまわない。主人公も同じだし。
これは死者との対話であり、死者に導かれて旅する話でもある。『銀河鉄道の夜』とか、そう言えば大竹野の『サラサーテの盤』とかも、これに近い。
忘れてしまっていたものたちが、彼のもとを訪れて、それらを思い出す過程で、懐かしい時間や場所を追体験することとなる。子供の頃、遊んだソフビの怪獣とか、置き忘れた傘、とか。恋人さんや、神様。人には必ず1人の1人ずつ神様がついている、というこの設定って、どこかの小説で最近読んだ覚えがある。まぁ、どこにでもあるような話だ。自分の恋人、ではないから、恋人さん、と呼びかける。彼女はヤマダさんの恋人らしい。忘れていたお父さんも出てくる。自分の父親を忘れる息子なんかない、と言わないように。自分が生まれてすぐに家を出て行った人だから。赤ちゃんの自分と母を棄てた男だ。でも、怨むのではない。子供の頃、父の26センチの靴に足を入れて歩いた。とても大きくてぶかぶかの靴。でも、今の彼にはそれでも小さい。彼のサイズは27センチ。溢れ出てくる思い出の数々に溺れるのではない。静かに受け止めるのだ。震災によってすべてを喪っても、でも、まだここに生きている。
震災のずっと前に死んでいる叔母さんが、ここにいて、炬燵に入っている。猫はちゃんと炬燵の中でまるくなっている。でも、やがて、猫は彼の神様(代理)、として、一緒に行動をともにする。
この深津篤史さんの書き下ろし新作を、キタモトさんは、感傷的には演出しない。でも、突き放すような見せ方もしない。あやういところで、ちゃんとバランスを保ち、結果的に、とても心地よいものとして、提示してくれるのだ。何度となく繰り返されるこの悲惨な出来事を巡る物語を、まるでメルヘンのように見せる。
だが、これは、当然の話なのだが、甘いお話なんかではない。作り手の姿勢は現実を冷徹に見つめるという方向性は崩さない。その上で、優しさを滲ませるのだ。この適度な距離感がとてもいい。能舞台という空間もいい。ここは神様の領域に近い。神聖な場所で、襟を正してこの物語を見守る。そういうスタイルも含めて、すべてが見事に様式化され、1本の作品のなかに収まる。
これは死者との対話であり、死者に導かれて旅する話でもある。『銀河鉄道の夜』とか、そう言えば大竹野の『サラサーテの盤』とかも、これに近い。
忘れてしまっていたものたちが、彼のもとを訪れて、それらを思い出す過程で、懐かしい時間や場所を追体験することとなる。子供の頃、遊んだソフビの怪獣とか、置き忘れた傘、とか。恋人さんや、神様。人には必ず1人の1人ずつ神様がついている、というこの設定って、どこかの小説で最近読んだ覚えがある。まぁ、どこにでもあるような話だ。自分の恋人、ではないから、恋人さん、と呼びかける。彼女はヤマダさんの恋人らしい。忘れていたお父さんも出てくる。自分の父親を忘れる息子なんかない、と言わないように。自分が生まれてすぐに家を出て行った人だから。赤ちゃんの自分と母を棄てた男だ。でも、怨むのではない。子供の頃、父の26センチの靴に足を入れて歩いた。とても大きくてぶかぶかの靴。でも、今の彼にはそれでも小さい。彼のサイズは27センチ。溢れ出てくる思い出の数々に溺れるのではない。静かに受け止めるのだ。震災によってすべてを喪っても、でも、まだここに生きている。
震災のずっと前に死んでいる叔母さんが、ここにいて、炬燵に入っている。猫はちゃんと炬燵の中でまるくなっている。でも、やがて、猫は彼の神様(代理)、として、一緒に行動をともにする。
この深津篤史さんの書き下ろし新作を、キタモトさんは、感傷的には演出しない。でも、突き放すような見せ方もしない。あやういところで、ちゃんとバランスを保ち、結果的に、とても心地よいものとして、提示してくれるのだ。何度となく繰り返されるこの悲惨な出来事を巡る物語を、まるでメルヘンのように見せる。
だが、これは、当然の話なのだが、甘いお話なんかではない。作り手の姿勢は現実を冷徹に見つめるという方向性は崩さない。その上で、優しさを滲ませるのだ。この適度な距離感がとてもいい。能舞台という空間もいい。ここは神様の領域に近い。神聖な場所で、襟を正してこの物語を見守る。そういうスタイルも含めて、すべてが見事に様式化され、1本の作品のなかに収まる。