久しぶり山本文緒の小説を読んだのだが、これがまぁとても面白くて、ぐいぐいひきこまれた。お話の仕掛け、展開が見事で、読み終えたとき「やられた、」と思う。最初の4つの短編はまさにそんな感じだ。でも、今回の目玉は最後の2編。こちらは敢えて仕掛けない。さらりと日常を切り取る。でも、その同じようにさらりと切り取られた日常が、お話の仕掛けのせいで驚きで世界が歪んで見える前半の4篇以上に何もなさげなのに驚きに見える。最後のこの2篇は凄い。
若い恋人たち(『ばにらさま』)、夫婦と子供(『わたしは大丈夫』)母と娘(『菓子苑』)祖母の若かりしの恋(『バヨリン心中』)と続いた後、5つ目は限りなく自分のお話になる。作家が主人公だ。(『20×20』)そして最後は完全に自分自身の話になる。(『子供おばさん』)もちろんこれは私小説なんかではない。5話目のあの作家が山本文緒ではないことは明白だけど、ここで言いたいのは、この短編集の構成が今の自分から遠いところからスタートして、だんだん近づいていくというスタイルになっているということなのだ。この6つの作品が描く宇宙は遠くから徐々に自分へと近づいていくというスタイルを取る。他人事のお話としてスタートしたいくつものスケッチが実は自分自身の姿だったことに気づく。もちろんそれぞれのお話は独立しているし、心当たりのない他人のできごとだと思う。でも、心の琴線に触れてくるものがそこにはあるから、なんだか疼く。その積み重ねがこの小説集の魅力なのだ。
子供おばさんは僕自身でもある。もちろん、男なので「子供おばさん」ではなく「子供おじさん」なのだが。(それどころか、もう「子供おじいさん」だ!)47歳で死んだ友人の葬儀の後、彼女の兄から託された遺品。それはものではなく、彼女が飼っていた大型犬である。その犬を飼う事で死んだ彼女の遺志を継ぐことになる。でも、それは単純な友情からではない。そして彼女は空っぽな自分を受け入れ生きていく。ここに切り取られた6つの世界の一断面は、どこかで見た僕たち自身の姿だ。こんな想いを抱いて、こんなことをして、生きてきた。そして、これからも生きていく。その先には何が待ち受けているか。わからない。
「何も成し遂げた実感もないまま、何もかも中途半端のまま、大人になりきれず、幼稚さと身勝手さが抜けることのないまま、確実に死ぬまで。」生きていく。