この芝居を見てよかった。なんだか自分が生き返った気すらする。この芝居を見て、彼女たちの熱い想いを受け止めたとき、生きる勇気をもらった気がして、胸に熱いものがこみ上げてきた。
1995年。あの年にこの作品は作られた。阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件のあった年。私たちがかつて経験したことのない未曾有の出来事と向き合い、そこからどう立ち直って生きるか。これは金蘭会がその指針を私たちに示してくれた作品である。それを26年の歳月を経て、今この時に再演する。もちろん当然初演のメンバーが出ているわけではない。(たまたま僕はオリジナルのメンバーである中迎さんと並んでこの作品を見ることが出来た!)今を生きる少女たちが演じる。
冒頭の震災、サリンのニュース映像のインパクトは強烈だ。敢えてそこからスタートして、作品世界に一気に放り込まれる。演劇の力を見せつけられる。生身の肉体がそこにあり、大人数の群像劇を通してひとりの少女の想いをしっかり届ける。
幸福だった頃の記憶が封じられた1本のビデオテープを求めて、ケイとその仲間たちがビデオショップにやってくる。行方不明になった兄を捜し求めて旅をするケイが出会う幻の世界。震災によって失われたものを宗教に逃げ道を求めた人たち。現実に目を背け、まやかしの教団に身を置くことにした恋人を奪い返しに行く兄と父。目眩く絢爛豪華なイメージの連鎖。
金蘭少女歌劇団が繰り広げる歌と踊りによる華やかなレビュー。少女たちがひたむきに自分たちの生まれるずっと前の時代を体現する。コロナ禍の今だから、ここに描かれたことが遠い昔の話ではなく今のこととして実感できるのだろう。少女たちによる宝塚のようなアンサンブルは金蘭だからこそ可能だった。少女たちが男役も含めて演じることがこんなにも自然で見事にこの虚構を現実の世界として表現できる。舞台上を彩る20数名の少女たちによる群舞は素晴らしい。
彼女たちは舞台上で、大声で、全力で、台詞を放ち、感情をぶつけてくる。コロナ禍の演劇が封印していたことを彼女たちは堂々と見せる。それは無謀なことではない。今、この表現が絶対に必要だから、する。当然感染症対策を万全にした上での公演である。そんなことは承知の上でも、この形での上演は大英断ではないか。大声で叫び、抱き合う。ぶつかり合う。人と人とがつながり、助け合い、生きていく。大切なものはすべてここにはつまっている。