習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『モンテーニュ通りのカフェ』

2009-01-22 20:25:10 | 映画
 なんだか懐かしいタイプの映画だ。最近はこういうどうってことない映画がなくなった。肩肘張った映画ばかりで、疲れる。そんな時、この映画のようになんの野心もない映画を見るとほっとさせられる。つまらない映画ではない。それどころかなかなかチャーミングな映画である。

 パリで生活している気分にさせられる。それって実はとても凄いことなのだ。映画は旅である。居ながらにしてその場所を旅して、生活までしている気分にさせられる。外国映画に憧れた昔の日本人はまずなによりもそんな気分に酔わされたのだ。かっておしゃれなフランス映画が好まれたのはそんな憧れを満たしてくれたからだろう。海外旅行なんて夢のまた夢だった60年代、日本人は映画の中でそんな欲求を満たしてきた。だが、時代は変わった。もう誰もが自分で海外を旅できる。シャンゼリゼは観光の名所で日本人のおのぼりさんが行くところに成り下がった。それは不幸なことではない。だが、それによって失われたものも大きい。

 自分がそこに行ったからといってなんでもわかったと思うのは早計だろう。それどころか、「しったか」してしまい、本当は何も知らないのに知った気分になる。憧れを映画で満たすことは不幸なことではない。想像の翼を広げて、目の前の映画の世界で羽ばたかせることは、実際にしょぼい旅行をすることよりもずっと豊かな体験なのだ。昔の日本人はそんなふうにして外国映画を見た。

 だが、今はそんな見方をするような人はいない。映画のパリはただの舞台でしかない。映画の内容のほうが大事なのだ。まぁ、それは当然の話だが、それでもお話よりもファッションだとか、おしゃれな生活とか、それに目を向けるだけでお話は2の次でもいい、そんな見方で楽しめたなら、それはそれでいいではないかと思う。

 このなんでもない映画が魅力的なのは、ここにでてくるパリジャン(こんな言い方はもう死語だろうなぁ)がとても魅力的であることと、そんな彼らに憧れる田舎から出てきた女の子ジェシカの無邪気な視点から映画が楽しめる、ということに尽きる。タイトルにあるモンテーニュ通りにあるカフェで働くことになった彼女が様々な人たちと出会い、ここで暮す日々があまりにノーテンキで無邪気に描かれる。なんだかこの映画はわざとお気楽に様々なことを描こうとするかのようだ。有名なピアニストのところに珈琲を届けて油を売ったり、お芝居の稽古をする劇場に行っていつまでも稽古を見てたり、しかも主役の女優とは友だちみたいに話したり、なんだかありえないくらいに軽い。そんな簡単にいろんな人たちと関わりを持てるなんて、ありえない。でもこれは映画なのだからOKなのだ。そんなノリである。

 ばかばかしい、と言ってしまうとそれまでなのだがそんな夢のような幸福がこの町には満ち溢れている、と映画なら描いてもいいのではないか。これはそんなタイプの映画なのだ。だが、単純で安直なB級映画だ、というわけではない。この街の気分を映画がきちんと伝える。そこには嘘がない。だから、この映画はおもしろいのだ。出てくる人たちのそれぞれの事情は別にどうってことはない。彼らの人生模様なんてこの映画にとっては彩りでしかない。軽やかで楽しげで、生きる喜びに満ち溢れていること。モンテーニュ通りのカフェに行ってきた気分にさせられること、この映画にとってはまずそれが大事なのである。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 川上弘美『どこから行っても... | トップ | 『ハックル』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。