これで3本とも見た事になる。今回の企画は予想をはるかに超える大ヒットだ。「今なぜか、テラヤマ」を3人の関西を代表する演出家たちによって3者3様のアプローチで見せ、それぞれ面白いものになっていた。12日まで、まだやっているので、ぜひISTまで行って欲しい。(また、宣伝してる!)
ウオーリー木下は戯曲ではなく、散文集である『書を捨てよ、町に出よう』を原作にして、いくつかの詩、短歌、散文をコラージュし、再構成した作品を作った。これは芝居ではない。一貫したストーリーがないから、そう言うのではない。これが芝居という枠に収まらないもっとラフなものを目指しているからだ。もちろんパフォーマンスでもリーディングでもない。ある意味で、とても寺山的としかいいようのない作品世界を構築できている。即興劇的な自由さと過激さ。それがとてもスマートに作られていくのがウォーリーさんらしい。
寺山がこのエッセイ集を基にして映画を作ったときのアプローチととてもよく似ている。但しここには暴力がない。さらにはアングラ臭すらもきれいに消されている。照明、衣装も含めて全体をとてもスタイリッシュに造形している。舞台中央のバスタブ。乱雑に散らされた文庫本。舞台後方左右に置かれたトイレ。それら単純な装置がとても清潔な空間を作り上げている。
だから、エログロを扱っているのに、そんな印象を与えない。母親と息子による近親相姦とか、排泄と読書とか、裸のシーンとか、水浸しになったり、過激な場面はいっぱいあるのに、少しもいやらしくない。もちろんそれもねらいなのだろうが、厭味にならず成功している。寺山修司をこんなにおしゃれに見せていいのか、なんて思うくらいだ。
だけども、ここには寺山が求めた自由への考察がきちんと描かれてある。「ポップなアングラ。完結しながら破綻する。叫びながら黙る。」というフライヤーのウォーリーによる文章がとてもよくこの舞台を示している。相反するものが同居することで生じるハーモニー。寺山の泥臭い世界をウォーリーがとても清潔でおしゃれなものとして見せていく。
水の張られたバスタブに文庫本を捨てていくシーンも印象的だ。さらには、その後のラストで、開いた文庫本を手でヒラヒラさせることで、飛翔する鳥を示すシーンはとても美しい。
ウオーリー木下は戯曲ではなく、散文集である『書を捨てよ、町に出よう』を原作にして、いくつかの詩、短歌、散文をコラージュし、再構成した作品を作った。これは芝居ではない。一貫したストーリーがないから、そう言うのではない。これが芝居という枠に収まらないもっとラフなものを目指しているからだ。もちろんパフォーマンスでもリーディングでもない。ある意味で、とても寺山的としかいいようのない作品世界を構築できている。即興劇的な自由さと過激さ。それがとてもスマートに作られていくのがウォーリーさんらしい。
寺山がこのエッセイ集を基にして映画を作ったときのアプローチととてもよく似ている。但しここには暴力がない。さらにはアングラ臭すらもきれいに消されている。照明、衣装も含めて全体をとてもスタイリッシュに造形している。舞台中央のバスタブ。乱雑に散らされた文庫本。舞台後方左右に置かれたトイレ。それら単純な装置がとても清潔な空間を作り上げている。
だから、エログロを扱っているのに、そんな印象を与えない。母親と息子による近親相姦とか、排泄と読書とか、裸のシーンとか、水浸しになったり、過激な場面はいっぱいあるのに、少しもいやらしくない。もちろんそれもねらいなのだろうが、厭味にならず成功している。寺山修司をこんなにおしゃれに見せていいのか、なんて思うくらいだ。
だけども、ここには寺山が求めた自由への考察がきちんと描かれてある。「ポップなアングラ。完結しながら破綻する。叫びながら黙る。」というフライヤーのウォーリーによる文章がとてもよくこの舞台を示している。相反するものが同居することで生じるハーモニー。寺山の泥臭い世界をウォーリーがとても清潔でおしゃれなものとして見せていく。
水の張られたバスタブに文庫本を捨てていくシーンも印象的だ。さらには、その後のラストで、開いた文庫本を手でヒラヒラさせることで、飛翔する鳥を示すシーンはとても美しい。