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映画・演劇のレビュー

『西遊記 はじまりのはじまり』

2014-12-12 22:50:12 | 映画
この映画を見た直後にたまたま『悟空出立』という本を読んだ。このタイトルなのに、主人公は沙悟浄である。彼の視点から見た自分たちの旅を描く。また、いつものように悟空がいない時に妖怪たちに拉致される自分たち。やがて、悟空が帰ってきて、助けられ、同じように旅は続く。そんな中で悟浄は八戒のことを思う。あの愚かなブタが実は天界一の策士だったという過去を持つ。そんな立派な男がなぜ、今、こんなブタになったのか。この小説を読みながら、映画を見たときには気づかなかったけど、チャウ・シンチーが今回の映画で目指したものが明確になった気がした。

チャウ・シンチーもまた、この作品で、八戒を従来のイメージとは違う男として、造形する。とても美しい男で、厚顔無恥ではなく、うそくさいくらいの紅顔の美青年として登場させる。しかし、彼は人間を食らう妖怪で、妖怪ハンター玄奘と戦う。

まだ言ってないが、今回の映画は若き日の三蔵法師である玄奘が、3人の妖怪たちと出会い、天竺への旅を始めるまでのお話だ。とてもシンプルで楽しい娯楽活劇で、中国本国ではすさまじい勢いでヒットしたのもよくわかる。

しかし、今の日本では、あれだけ宣伝しても全く集客はできない。公開から4週間ほどで、早々に姿を消す。本来なら11月下旬からの公開だから、お正月映画として新春のスクリーンをにぎわす作品であってもよかったはずだ。『少林サッカー』や『カンフーハッスル』はかなりのヒットとなったのに、今回はまるで振るわないのは、チャウ・シンチーが出演していないから、ということだけが理由であるまい。地味なキャストでも、作品が素晴らしければ、内容勝負で十分興行は成り立つ。これだけ、面白いのだ。問題はなかったはず。大体チャウ・シンチーは日本ではそれほどメジャーな存在ではない。タイムリーでなかったからだ。それだけで、興業の成否が決まる。

大体、今の日本ではこういう映画は大衆にアピールしない。ノーテンキな映画が無理なのではない。純粋な映画が無理なのだ。見ている分には楽しい。何も考えず2時間のアトラクションとして楽しめる。本来ならそれだけで、充分である。だが、楽しい、だけではアピールできない。もっと簡単に楽しめるものが溢れているからだ。映画はもうみんなの娯楽ではなくなったのかもしれない。

だが、これはそれほど単純な映画ではない。一見このとても、「ありえねーえ」映画からはチャウ・シンチーの愛情と本気がしっかりと伝わってくる。悟浄、八戒と続いて、ようやく悟空が登場するエピソードになる。お釈迦さまに閉じ込められていた暴れん坊の彼が、玄奘をだまして自由になる。これは定番のストーリーなのだが、ここに登場する孫悟空を演じている役者が問題なのだ。貧相な髪の薄い中年オヤジ(でも、少しチャウ・シンチー似)が現れる。もちろん、わざとだ。彼がこの後、物語のヒーローになることは周知の事実。そのヒーローをあんなおっさんに演じさせ、卑屈で、狡賢い男として見せる。そこがねらいである。娯楽映画の定番を抑えるフリしながら、微妙に外し、もとに戻す。この映画が、「ありえねぇ」のはそこなのだ。わかりやすさのその先にある毒。

誰とも出会えず、何もせずに同じ場所に留まることは苦しい。でも、人を騙して、手に入れた自由も空しい。悟空と玄奘の戦いを通して、我々がどこに向かうのかを知る。愚かな生き物である我々が同じ失敗を繰り返しながら、旅をする。このばかばかしい映画を見ながら、なぜか、すがすがしいのは、そんな当たり前のことを、あの手この手を使い、本気で描いたからだ。でも、それは、今の日本の観客には届かない。

だから、描きたいことは、万城目学の小説と同じなのかもしれない。人はなぜ旅をするのか。ここに留まるのではなく、大きな夢を抱いて長い道のりを何度も同じ失敗を繰り返しながら、その先へと行く。その理由がこの単純な映画になかにはある。

玄奘が三蔵法師になり、生きる目的を明確にし、3人の仲間たちと旅にでるラストシーン、4人が並んで歩くシーンに、なぜか『Gメン75』のテーマ曲が流れる。胸が高鳴る。そこに、意味もなく、感動する。


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