足掻き(あがき)と書いて「あしかき」と敢えて読ます。自転車を漕ぎ続ける足。その足を搔く。掻きむしる。そんないくつものイメージを掛け合わせていく。とても刺激的なタイトルだ。もちろん、彼らはここで静かにあがいている。そこから始まる。
お話の外枠には作家と編集者がいる。彼が書いている小説が劇中劇として描かれる。しかし、お話自体はこの小説が中心になる。そして、その物語の主人公である女性とその母親との関係が中心になる。父親の出奔。母子家庭で育った。弟がいる。彼はとても優しい。恋人もいる。彼もまた優しい。何の不安もないはずなのだ。でも、彼女は足掻き苦しんでいる。
とても真面目な芝居で好感が持てる。心の病を描く。それを心象風景として見せていくとき、全体の構造と仕掛けはとても大事だ。それによって、彼の内面がどうなっていくのかも見えてくる。自分が書いている小説の主人公である女の子と自分自身が重なって、彼女の行為、言葉はすべて、自分自身の思いとなっていく。同じことが2度描かれていくのは、ちょっとしつこくて、そこに落差がないから、緊張感は生まれない。2人の話が重なるところと、重ならない部分があり、その齟齬が彼自身の内奥へとつながっていくという構造が欲しい。これではあまりに素直すぎて少し退屈。これでは理想と現実の対比ではなく、今の自分自身の確認でしかない。
居間のテーブルとそれを包み込むようにらせん状の滑り台という舞台美術はとても象徴的で面白いけど、このせっかくの空間も芝居の中に生かし切れていないのももったいない。彼は滑り台の上で小説を書いている。彼女は中央のテーブルで小説を書いている。その位置関係が何を意味するのか。さらには、彼は小説家で、彼女は小説家志望である。この両者の構造がどこにつながるのかも、もう少し明確にして欲しかった。せっかくの仕掛けが生かされていない。外枠と内側(中心)がお互いにどういう影響を与えあい、それがどこにたどりつくのか。そこに生じるサスペンスが欲しい。お話の外枠の作家と編集者は、やがて医者と患者に代わる。いろんな仕掛けは施されてある。だけど、それがうまく集約されていかないのが歯痒い。
さらには自転車のペダルを漕ぐ音。彼らはここからどこに向かっていきたいのか。ここに停滞して、足掻き続けることが、彼らにとって何になるのか。彼と彼の作った物語とその先に見えてくるものが、もう少し明確になったなら、よかったが、それが見えてこないまま停滞続けるから、もどかしい。もちろんそのもどかしさこそが、描きたいことなのだろうから、目的は達せられているとも言えるのだが。