リドリー・スコットの最新作は初心に戻って、シンプルな決闘を描く。デビュー作である小品『デュエリスト 決闘者』を彷彿させる作品だ。それを『グラディエーター』並みのスケールで描く大作である。これまで彼は手あたり次第という感じで、さまざまなタイプの映画を作ってきたのに、商業主義の器用な便利屋ではなく、なぜか作家主義のアーティストだ。ヒットメイカーだし、大ヒットする大作映画を数々手掛けたのにもかかわらず、である。『エイリアン』や『ブレードランナー』というSF映画のレジェンドをものにしても、その作品は娯楽映画の枠には収まらない。
そんな彼が今回挑んだのは、黒澤明の名作『羅生門』である。2時間半に及ぶ大作なのに、お話は単純極まりない。黒澤はあの映画を1時間半弱に仕上げた。リドリー・スコットはこの映画を2時間半強に仕上げた。だけど、作品の風格や感触はよく似ている。
3人それぞれの目から見えてきた事実は彼らの真実だ。視点が違うから同じものが別のものに見えてくる。そこには作為も悪意もあるかもしれない。だが、それは確かにそれぞれの真実だと思う。ふたりの男はそれぞれの誇りを賭けて戦う。女は意地を貫く。どちらが善でどちらが悪かは明らかだ。マット・デイモンの夫は善で、アダム・ドライバーの間男が悪、ということでいい。ジョディー・カマーの妻は被害者。でも、ほんとうにそうなのか、と言われると話はそんな単純なものではないことも明らかだ。
黒澤映画は、ある意味もっと単純だった。誰の中にも善と悪がある、ということを4つ目の目である傍観者の視点から描いていたからだ。だけど、この映画はそんな神の視点はない。それどころか、決闘で善悪が決まり、勝者は正しく、敗者は断罪される。でも、どちらが勝つかは紙一重だ。勝者にも歓喜はない。勝敗が神の判断ということらしい。だが、そんなのは嘘だろ、というのは誰だってわかる。しかも、その決闘裁判は王だけではなく、みんなが、娯楽として見守る。競技場を埋め尽くす観客はイベントとして楽しんでいる。ばかげた話だ。こんなあきれた裁判はなかろう。映画はその是非を問うわけではない。その事実を淡々と見せるばかりだ。何の主張もない。だが、その出来事は圧倒的なスケールで胸に迫る。そこにある事実の迫力だけを伝える。突き放した描写に終始する。僕たち観客は説明不要のそのことに圧倒される。