小学1年生になったばかりの息子を持つ母親が主人公だ。どこにでもいそうな家族。夫はテニスのプロだったが、今は自分たちのために生きてくれている。彼はかってテニスで世界中を回っていたが、自分の才能に見切りを付けて、今はインストラクターをしている。そんな優しい夫とは当然育児と家事を分担している。そして、彼女はちゃんと仕事もバリバリこなす。何不自由ない理想的な暮らし。何一つ文句のつけようのない日々。だけど、彼女は満たされない。そこには漠然とした不安がある。
自分はあのおぞましい父親と似ているかもしれない。隠されたものが明らかになる。仲の悪い両親に育てられた。権威を振り回し暴力的な父親。彼のいいなりの母親。父は暴力で家族を支配する。小学校の教師をしていた。定年後の今も再任用で働いているが、定年を契機にして妻から離婚を迫られる。二人の子どもたちは当然家を出ている。だから今は一人暮らしだ。そんな父とは関わり合いたくない。離婚した母親は今では再婚して幸せに暮らしている。妹は父親と一切かかわらないで暮らしている。だから、彼には自分しかいない。そんな彼が肺癌になる。やがて死んでいく。
これは父と娘のお話だ。ある家族の物語だ。自分が育った家族のことが、今の幸せな家庭に影をおとす。自分のふたつの家族。最悪な家族を反故にして、自分の理想の家族を作る。でも、そんな今の自分を信じられない。何かが足りない。何かが違う。彼女は父親のガンを通して、自分が避けてきたものと向き合うことになる。最悪だった父親の弱さを自分も引き継いでいる。血のつながりのおぞましさ。それをこの小説はちょっとした不安として描く。事件らしい事件は起こらない。夫は優しいままだし、息子も賢いから、彼女を困らせない。父親だって彼女に迷惑を掛けることなく、死んでいった。
涙をなくしたまま、生きてきた。そんな彼女がちゃんと泣ける日が来るのか。避けてきたものと向き合い、乗り越えられるのか。決して後味のいい小説ではないけど、このなんともいいようのない想いはじんわりと伝わってくる。ここから目を逸らすわけにはいかない。